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サントリーホール誕生物語 〜サントリー二代目社長 佐治敬三が挑んだ夢

こんにちは、サントリーホールのトビラです。

ホールの入口で、いつも両扉を広げて皆様をお迎えしている私トビラも、この10月で38歳になりました。
1986年10月12日、日本で初めての“ヴィンヤード(ぶどう畑)形式”のコンサート専用ホールとして、サントリーホールは生まれたのです。

そこで今回は、私たちの誕生物語、“新しい音楽の場”への壮大なチャレンジの道のりを、生みの親である初代館長 佐治敬三(さじ けいぞう 1919−1999)の想いと共に、お伝えしたいと思います。
昭和のエネルギーが、ほとばしります!


♪ 大きくて、広い人

佐治敬三は、大きな人でした。
生涯に成したこと、創りあげたものは、幅広く数知れず。
日本で初めて本格的ウイスキーをつくった男 鳥井信治郎の次男として生まれ、父が大阪で創業した“洋酒の寿屋(ことぶきや)”を、世界規模のサントリーグループに発展させた実業家です。

新しいものを求めてチャレンジする好奇心
人を楽しませるユーモアとサービス心にあふれ、
人との縁をとても大切にした人でした

サントリーホール初代館長 佐治敬三

身体も声も大きくて、心も顔も広く、圧倒的な存在感。
タキシードをピシッと着こなし、大きな笑顔でサントリーホールへ歩み入る姿を、トビラは誇らしく眺めたものです。

♪ こころよい時間、豊かな日々を支えたい

さて、サントリーホールへの長い道のりは、徐々に見えてきます。
佐治敬三が寿屋社長に就任した1961年(昭和36)から、物語を始めましょう。
(戦後16年、高度成長期と呼ばれたこの時期の日本をイメージしてみてください。ここからちょうど25年後に、サントリーホールが誕生します!)

大学では理学部で研究者を志していた佐治敬三は、
二代目社長の挑戦として、念願のビール事業に向かって突き進み、また、ウイスキーのマスターブレンダーとして自ら製品開発に取り組んでゆくのですが、
実は、社長として最初につくった施設は、「サントリー美術館」でした。

1961年 開館当初のサントリー美術館。
現在は六本木・東京ミッドタウン内にあります

ヨーロッパ各地を商用で訪れたとき、どの町にも、広場とともに美術館や博物館、コンサートホールなどがあり、市民の暮らしの中で身近に楽しまれている光景が、とても心に残ったのだそうです。

日々の中に流れる、こころよい時間
そんな豊かな社会でこそ、お酒も文化も育まれる、と。

経営者として、利益の一部は社会に恩返しするという、先代から引き継いだ志もありました。

日本の音楽文化の発展・向上のため「サントリー音楽財団」を創設し、理事長を務めたのも、そのような流れから(1969年創設当初の名称は鳥井音楽財団。現在はサントリー芸術財団に移行)。

学生の頃からクラシック音楽のレコードに親しんできた佐治敬三にとって、音楽の世界は憧れでもあったのです。

♪ 音楽家たちの悲願、「東京に、コンサート専用ホールを!」

しかし、佐治敬三は音楽界においてはむしろ門外漢。
良きブレインとして、日本を代表する音楽家および関係者たち精鋭が、音楽財団に集います。
活動の柱は、「サントリー音楽賞(創設当時は鳥井音楽賞)

佐治敬三と音楽家たちとの、広く深く密な交流が始まります。

理事メンバーのなかでも、旧知の作曲家 芥川也寸志氏とは、なんでも話し合える間柄に。
かの大作家 芥川龍之介の三男で、作曲家として若き日より脚光を浴び、また、アマチュアオーケストラ新交響楽団を結成、指揮者としての多岐にわたる活動、ラジオやテレビの音楽番組の司会などでも広く知られた、当時の日本の音楽界をリードしていた人物です。

作曲家の芥川也寸志

財団の活動も軌道に乗ってきた頃、その芥川氏が、こう言ったそうです。
「佐治さん、サントリー音楽賞はユニークな賞として評価を高めていて、音楽家の一人として感謝にたえないのですが、今、東京に求められているのは、本格的なコンサート専用のホールです」

それは、日本の音楽家たち皆が、熱望していることでした。
多くの演奏家、指揮者、作曲家が世界を舞台に活躍し、また、世界最高峰のオーケストラも招聘できるようになった1980年代初頭の東京に、まだ、理想的な音響と雰囲気をもつコンサート専用ホールが、ひとつもなかったのです(公共ホールのほぼすべてが、演劇やイベント、集会などにも使う多目的ホールでした)。

佐治敬三の心が動きます。
“生活文化企業”のサントリーだからこそ、挑戦してみたい。
しかし、一私企業が手掛けるには、あまりに壮大すぎる夢……

♪ 縁が運を引き寄せ、夢が現実に!

佐治敬三は、運を引き寄せる人でした。
この時期に、サントリーホール誕生に欠かせない人物や事象が、次々と現れるのです。

まず、東京都の都市計画として進行中の赤坂・六本木地区「アークヒルズ再開発」の中で、文化施設をサントリーでつくらないか、という話が持ち込まれます。

さらに、クラシック音楽界最高峰のコンサートを、サントリーがスポンサーとしてバックアップすることに。創立百周年を迎えるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(カラヤン指揮)の来日公演という一大企画です。

1981年(昭和56)10月。
佐治敬三は、東京で、ヘルべルト・フォン・カラヤンに初めて会います
「その前へ出たら、コチコチですわ」
と後に振り返っているように、音楽界の巨匠との対面はさすがに緊張したようですが、アットホームなもてなしの席を設け、カラヤン氏の気さくな一面に触れます。

(このとき、カラヤンさんも、佐治敬三のことが印象深く心に残ったようです)

そして、東京文化会館とNHKホールで行われた10回に及ぶ演奏会の盛況ぶりを、肌身で感じ、新しいコンサートホール創設への想いに火がついたことでしょう。

夢物語を、具体的な計画へと移行するときがきました。

文化施設として理想の形態、事業として成り立ち得る建設・運営規模など、さまざまなプランをシミュレーションさせ、熟考を重ねた佐治敬三は、アークヒルズの一角にコンサート専用ホールをつくり、運営していくことを決断します

(つ、ついに‼︎)

コンサートホールの設計を託したのは、浪速高校尋常科の頃からの親友、安井設計事務所社長(当時) 佐野正一氏。
それまでにも、ウイスキー蒸溜所(山崎・白州)をはじめサントリーの様々な施設の建築に携わり、共に歴史を歩いてきた二人。気心も知れる間柄です。
佐野氏が、若き日より無類のクラシック音楽好きであり、その世界に深く通じていることも、佐治敬三はよく知っていました。

サントリーホールとヨーロッパの音楽界を繋ぐ大きな力となったのは、ドイツ在住の音楽ジャーナリスト 眞鍋圭子。前述のカラヤン来日の際、秘書兼通訳として随行し、氏の絶大な信頼のもと、日本側とのコーディネーター役として手腕をふるった人物です(そして現在、眞鍋圭子はサントリーホール・エグゼクティブ・プロデューサーとして活躍中)。

カラヤン(右から2番目)と佐治敬三(左)をつなぎ、尽力した眞鍋圭子(左から2番目)
安井設計事務所の 佐野正一(右端)の姿も

♪ 世界一美しい響きとは?

1983年(昭和58)1月。
「世界一美しい響き」のホールを実現するために、佐治敬三は、佐野正一氏らプロジェクトチームと共に、世界の名コンサートホールを視察する旅に出ます。

演奏家の視点も大切だと、北米を拠点にして活躍中のチェリスト 堤 剛がウィーンで合流。これも、サントリー音楽賞受賞者という縁あってのことです(現在の第5代サントリーホール館長の堤です! この視察旅行については、エピソード1でも詳しく触れていますので、ご覧ください)。

ベルリンでカラヤン氏を訪問し、設計について意見を聞くことも、旅の大きな目的でした。
よくある長方形のホール(靴箱にたとえてシューボックス型と言います)以外に、新しいコンサートホールの形を模索していた佐野氏は、ベルリン・フィルの本拠地「フィルハーモニー」の美しい響きに、注目していたのです。

ベルリンで、カラヤンから重要なアドバイスを受ける佐治敬三(右)

カラヤン氏は、明快に即答してくれたそうです。
コンサートは舞台上の演奏家と聴衆が一体となってつくり出すもの。ステージを中央に配置し、その周りを客席がぐるりと囲み、皆で音楽をつくっている雰囲気ができあがる、このヴィンヤード(ぶどう畑)形式こそ、ふさわしい

なぜ、ヴィンヤードの形状にすると、響きが良いのか。

「段々畑に太陽が降り注ぐように、段々に配された客席のどの場所にも等しく音楽が響くのです」

佐治敬三は、ポンッと膝を叩き、
「ほならそうしましょう」

大ホールは、ステージを360°客席が囲むヴィンヤード形式に

♪ たくさんの “日本で初めて” が生まれました

こうして、日本で初めての “ヴィンヤード形式”のコンサート専用ホールをつくることになったのです(近年では、国内外の多くのホールが、この形式を取り入れています)。

前例の無い、初めて尽くしの挑戦に、誰もが無我夢中だったと言います。
アイデアを出し、議論を重ね、検証し、細かな点にも妥協することなく改善を重ね、全体を見渡し、また検討し、前に進む。
その真ん中に、いつも佐治敬三がいました。

サントリーホール建設現場を視察する芥川也寸志(中央)と佐治敬三(右)

音響設計は、今や世界中のコンサートホールを手掛けその名を知られる永田音響設計。彼らの最初期の仕事であり、現場にいた豊田泰久氏は、こう振り返ります。
「いい音のするホールを作ってほしいとしか言われなかった。では、いい音とは何か、世界的に通用するホールとはどういうことかと、我々も勉強する。そういう仕事をしたのは初めてでした」(サントリーホール20周年記念誌より)

縮尺1/10の正確な模型をつくり、徹底的に音響実験を行いました。右が豊田泰久

佐治敬三らしい、「やってみなはれ」の心意気です。

美しい響きのみならず、空間の細部に至るまで、心豊かさを求めました。

大ホールの客席数は2000余。誰もがゆったりと音楽を聴けるように、座席は従来より大きなサイズで、列の間隔も広めに。大柄な佐治敬三のこだわりでした。

ホワイエ(ロビー)にはドリンクコーナーを設け、ビールやワイン、ウイスキーを揃える。コンサートの前後や休憩のひとときに、お酒を楽しむスタイルを取り入れたホールは日本初でした(近年、ドリンクメニューはますます充実しています)。

休憩時間といえば、トイレが気になりますよね。なるべく行列ができないようにと、従来のホールよりトイレの数を大幅に増やしたのも、佐治敬三の心配り。

さらに、音楽で満ちた非日常空間を心から楽しんでもらえるように、「レセプショニスト」というサービスを取り入れたのも、初代館長のアイデアで、日本のホールでは初めてでした。
そう、私トビラの前で皆様をにこやかにお迎えしご案内している、制服姿の男女。おもてなし係とでも言えばいいでしょうか、レセプショニストという職業自体が、サントリーホールとともに生まれたのです。

お客様をご案内するレセプショニスト。2024年4月から新しくなった制服でお迎えしています

♪ 「フロイデ!」

佐治敬三は、音楽を、音楽家たちを、その空間を、心から愛していました。

1986年(昭和61)10月のオープン前日。
夜を徹して準備にあたるすべてのスタッフが、ブルーローズ(小ホール)に集められました。
佐治敬三は、どうしてもお礼の挨拶をしたかったのです。

「いよいよ明日です。今日こんなことができるのは、皆さんのおかげ……」

歓びと感謝の気持ちがあふれ、声が詰まり、涙があふれていました。

「ありがとう……」

ただ頭を下げ、去ります。

昂揚した気持ちが波動のように伝わり、そこに集う一人一人が、歓びをかみしめた瞬間でした。

10月12日(日) 10時30分、サントリーホール誕生
満場のお客様を前に、タキシード姿の佐治敬三が、正面2階の高さに設置された世界最大級のオルガンの前へ進み出ます。
神妙な顔でご挨拶、かと思いきや、くるりと後ろを向き、オルガンのA(ラ)の音を人差し指で押します。

オルガンのA音を鳴らして開館宣言をする佐治敬三

サントリーホールに鳴り響く最初の一音。にっこり笑顔の佐治敬三。
(このオルガン設置についても、カラヤン氏のアドバイスにより、佐治が決断したことでした。詳しくは、エピソード1とをご覧ください)

13時30分。
佐治敬三の姿は、落成記念演奏会のステージ上、ベートーヴェン 交響曲第9番に臨む合唱団の中にありました。

実はその4年前から、大阪城ホールにおいて「サントリー一万人の第九」という、これまたかつてない規模のイベントが始まり回を重ねていたのですが、佐治敬三は毎年その合唱に参加、「歓喜の歌」を歌い込んできたのです。

「フロイデ!(歓喜よ!)」

お腹の底から出た大きなバリトンの声が、オーケストラの音色や合唱団全体の歌声に和して、サントリーホールに響きました。心の底からの歓喜でした。

あの日からサントリーホールは、人と音楽とが響き合う “楽器” となりました。
佐治敬三の想いは、ここにずーっと、生き続けています。

サントリーホール誕生時のエピソードは、こちらもご覧ください。
エピソード1
「サントリーホール館長は、81歳現役の世界的チェリストです。」
エピソード2
「5,898本のパイプを持つオルガン。その響き、もはや異次元体験です!」