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三十歳

  少し大人になった私は、先輩を許してあげることにした。


 社会人一年目の五月。ネモフィラが咲いていた季節。会社で配属されたチームには、私の教育係になった先輩がいた。

 一年先に入社していた先輩は、在学中に留学していたり、大学院に進学していたりして、年齢は私よりも五つほど上だった。社会人なりたてぴちぴち一年目の私には、先輩が偉大な大人に見えた。

 はじめの仕事のほとんどは、先輩から教えてもらっていた。一ヶ月ほどの研修で学んだことは、配属先での仕事にはあまり関係なくて、メールの書き方も、他部署の関係者の名前も、上司に意見を通す方法も、飲み会に向いている店も、教えてくれたのはぜんぶ先輩だ。はじめて担当した仕事も、先輩から引き継いだものだった。

 先輩は仕事を教えるかたわら、定期的に私と一時間の面談を設定した。それは、やっている仕事の相談というより、キャリア面談のようなものだった。狭い会議室に、私と先輩の二人だけが座る。会議室に入ると先輩は、オフィスでは見せない取り調べをするかのような鋭い目つきになった。毎回の面談で先輩は、

「あなたがやりたいことは何?与えられた仕事をするだけでいいの?」

「常に上司と同じ目線で考えないと、いつまで経っても昇進できないよ」

「同期と喋っていても意味がないから、時間の無駄だしやめた方がいい」

みたいなことを言っていた。私は、目の前の仕事でいっぱいいっぱいだったし、出世をしたいと思ったことなどなかったし、同期のことは親友のように思っていたから、先輩が欲しがっていた答えはできなくて、それが申し訳ないと思っていた。毎回「私にはまだわからないです」と苦笑いで返して、その一時間が過ぎるのを待った。

 社会人一年目の十月。チームの仕事が落ち着いたタイミングで開かれた、海鮮居酒屋での飲み会。その日先輩は、ビールを飲み過ぎていた。先輩の酒癖の悪さは聞いたことがあった。周りに迷惑をかけたり、上司や取引先と揉めたり。あまり信じていなかったのは、はじめに感じた先輩への尊敬があったからだったりする。

 私の隣の席につくなりビールをぐいぐいぐいっと喉に流しこんだ先輩は、次第にアルコールに飲まれていき、いつもの面談の調子で私に説教めいた話をしはじめた。いつもと変わらない話が、いつもよりコントロールできていない舌で生成されていく。私もいつもの調子で流そうとしたが、先輩は、その対応が気に食わなかったのかもしれない。呆れるような顔をしながら、

「そんな甘い考えなら、うちのチームにおまえは要らない」

と言った。

 ぎりぎり張り詰めていた糸が、ぷつっと切れたような気がした。見えていないふりをしていたもので、視界が埋め尽くされた。目の前には誰も手をつけていない刺身が残ったままだった。向かいの上司が「それは違うぞ」と注意した声が聞こえるくらい、私は意外に冷静だった。

 そこから丸二年、私と先輩が会話をすることはなかった。

 周りが気まずくならない程度に挨拶はするが、仕事のこと以外で話すことはなくなり、その少し後に先輩が違うチームに移ってからは、いよいよ目を合わせることすらなくなった。新しく入った後輩がおもしろがって引き合わせようとすることもあったが、どんな誘いでも、先輩がいる集まりは断り続けた。過剰かもしれないと思ったこともあったが、正義は私の方にあった。先輩が離婚したという噂が流れてきたときも、かわいそうとは思わなかった。

 社会人三年目の十月。三十歳になった先輩の誕生日に飲み会が開かれることになった。後輩が冗談半分で「行きますか?」と笑いながら聞いてきたのに、私はなぜか「行く」と答えた。後輩は驚きながら、「歴史的な日になる!」と喜んでいた。そんなに喜ぶことじゃないし、そんな簡単にランクインできるほど日本の歴史は甘くない。気恥ずかしさだけが残った。

 先輩は家族とご飯を食べる予定があり、途中から合流することになった。後輩はおもしろがって私の隣の席を開けて、「二人が並んだツーショットが見たい」とゲラゲラ笑っていた。奇しくもその店は、二年前に先輩の隣に座った海鮮居酒屋だった。飲み会が盛り上がってきたタイミングで、先輩が到着した。

 三十歳になった先輩は、何も変わっていなかった。相変わらず自分が正しいと思っているフシがあるし、いらない一言も言うし、たぶんプライドも高い。それがなんだか、少しかわいそうに思えてきて、酒癖が悪いことも、離婚したことも、かわいそうと思うと嫌ではなくなった。私たちは苦笑いしながら、ぎこちなさも残ったままだったけど、二年ぶりに話すことができた。

 だから変わったのは私の方で、少し大人になった私が、先輩を許してあげることにしただけだ。



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