「パフォーマンス課題」とかいうのが「真正の学習(学び?)」です、って、そんなわけないだろう。
私はアンチ「パフォーマンス課題」である。なんの意外性もないだろう。
「パフォーマンス課題」って、いまだにけっきょくなんなのかわからない。しかし先行事例の「パフォーマンス課題」を見ると、なんてくだらないことをやらせるのだ、と思ってしまう。
例えばこういう「パフォーマンス課題」があるらしい。
作ってて、「なんて現実離れした課題なのだろう。ぜんぜん「リアルな文脈」じゃないじゃん。」とは思わないのだろうか。
「コロナ禍の影響で中学生対象の学校説明会を開くことができなくなった〇〇高等学校から,学校案内の表紙に掲載するキャッチコピーを依頼されました。」とある。
「コロナ禍の影響」で、「学校説明会を開くことができなくなった」のはわかる。これは「リアル」だ。
しかしだからなんなのか。ふつうは「学校案内」は毎年作ってるんじゃないか。つまり、「学校説明会」の開催の有無とは無関係に、これまでも「学校案内」は作ってきたはずである。わざわざ設定として「コロナ禍の影響で」云々と書かれている「文脈」をどう考えればいいのか。
「いや、これまでも「学校案内」は作ってきた。しかし、「学校説明会」で説明することを重視してきたので、「学校案内」に力を入れてこなかったのだ。だから、「学校説明会」が開催されない以上、これまでよりもっと「学校案内」に力を入れないといけない。そのような方針なのだ。」
こんなふうに言えるのかもしれない。
しかし、それならば、〈ふつう〉は「キャッチコピー」だけではなく、誌面の構成を含めて(業者に依頼するのだとしたら)依頼するんじゃないか。あえて「キャッチコピー」だけを依頼する意図はなんなのか。「キャッチコピー」は確かに重要だろう。しかし、より重要なのは、「学校案内」の中身ではないのか。なぜ「学校案内」の他の部分は考えないのか。
また、もしすでに他の誌面が決まっているなら、その誌面との関係で「キャッチコピー」を作るべきではないのか。また、表紙の写真はどんな写真なのか。そもそも写真ではないのか。どのくらいの大きさで、どのくらいの位置に「キャッチコピー」は載せるのか。
そもそも依頼されて、見積もりを出したとして、じゃあすぐ作りますねってなるのだろうか。〈ふつう〉はヒアリングとかされるのではないか。また、学校側が作成した仕様書に基づき、作成されるのではないか。単価はどれくらいなのか。予算との兼ね合いで、どのくらいの文字数で考えなければならないのか。
〈ふつう〉は、校長のみがプレゼンを聞いて決めることはないのではないか。管理職数名や、担当の教員、事務職員らがプレゼンには参加するのではないか。「プレゼンテーション用の説明」とはなんなのか。何分が与えられているのか。他社は参加しているのか。参加しているとしたら、どんな会社なのか。
要するに、「リアルな文脈」は複雑なのだ。職業人を舐めてはいけない。まともな大人で、まともに仕事をしているなら、さまざまな要素を踏まえて「キャッチコピー」を考えるのである。
同記事には次のように書かれている。
「これまでの学習で学んできた複数の知識やスキルを総合して使いこなすことが求められる」課題らしい。ひとまず、「学習で学んできた」のような表現への違和感は措く(「これまで学習してきた」「これまで学んできた」でいいじゃん。またどの範囲の「学習」を指しているのかも不明である。「これまで授業で学んできた」のような表現のほうが適切ではないか。)。この「複数の知識やスキル」は、おそらく「学習で学んできた」ような範囲には留まらないはずだ。上述したような設定上の疑問に関わる知識も必要なはずだ。このような疑問は無視して、とにかくキャッチコピーを作れ、というのが、果たして「深い学び」なのだろうか。わからん。
他の例を出す。
この設定はいったいなんなのか。なんの意味があるのか。
「あなたは和歌の詠まれた時代にタイムスリップした若者です。」そんなわけないやろ。せんよ「タイムスリップ」、と私などは即座に思ってしまう。まあこんなところにつっこむのは野暮だろう。これはまあ受け入れよう。私は「タイムスリップ」したのである。
「歌集の歌を聞いたあなた」とある。どんな状況なのか。誰かが音読していたのか。「聞いた」のであるから、たぶん誰かが音読していたのだろう。「その和歌の作者に思わず返歌をしてしま」うという。そんな文脈無視して「返歌」などするのだろうか。しかも「作者」にするのである。自分に対して詠まれてもいないのに、どうやって「返歌」するのか。「作者」は近くにいるのか。いないのか。いないとしたら、ひとりで勝手に「返歌」を作るのか。やばいやつじゃないか? そういうことはあるのだろうか。私は古文やその時代の常識について詳しくないのでわからない。しかし違和感がある。
また、なぜか「鑑賞文を書く」ことになっている。「その内容に感銘を受け」、「思わず」和歌を詠んでしまう設定である。相当の感動具合だ。そんなに感動しているのに、律儀に「鑑賞文」など書けるのだろうか。〈ふつう〉はその感動は、言葉にできないのではないか。「なんか……すごく……いい……」くらいじゃないか。その程度しか言葉にできないと考えるのが〈ふつう〉じゃないか。だって「タイムスリップした若者」が、「返歌」しようと思うくらいの衝撃なのだ。〈ふつう〉そんなこと思わないししないよ。でも思うくらい「感銘を受け」たのだ。そんな感動を言葉にしうるか?
いったいなんのための設定なのか。単に「いちばん好きな和歌を一つ選び、鑑賞文を書きなさい。また、返歌を作りなさい。返歌を作るときには、もとの和歌の内容や形式を踏まえて作ること」のような課題ではなぜだめなのか。
つまり、このような設定をつけることが、なぜ、どのように効果的で意味や意義があるのか。上に書いたような多くの疑問を持ちうる粗い設定で、それ以上の状況については知り得ない「リアルな文脈」を、形だけでも受け入れて書けということか。それが「主体的な学び」「深い学び」なのか。わからない。
私が学習者なら、こんなよくわからない設定に付き合いたくはない。忖度して教師が喜びそうな表現をしたくない。もっと明確に条件づけられるほうがよい。箇条書きで、条件を明示されたほうがよい。そのなかで自由に表現できる。変な設定がないからこそ、必要な「知識やスキル」が意識できる。それらの「知識やスキル」をうまく使いさえすれば、自由に表現できるのだと思える。
少なくとも、よくわからない「リアルな文脈」を設定されても、それがほんとうの意味で「真正な学習」であるとは思えない。