祖父の涙
父の涙
「父の涙」という本がある。
本と言っても一般に流通している本ではなく、20ページほどの薄い冊子である。私の叔母が祖父(彼女にとっての父)から聞き取りをしたものをまとめたものだ。
冊子が完成した時に一度読ませてもらったけれど、当時は内容はほとんど覚えていなかった。最近改めて読み直したのでまとめてみる。
誕生
祖父は大正9年、岡山県勝央町上香山に8人兄弟の3番目に生まれた。
彼の父(私にとって曽祖父)は日独戦争に従軍した後、警察官で県内を異動しながら生活していた。一時は私が現在住んでいる場所の近くに住んでいたこともあったらしい。
祖父は小学校を卒業して勝間田農林学校(現:勝間田高校学校)へ進学。
卒業後、一年浪人して富山薬学専門学校へ進学。祖父の実家は薬局だったらしく、親が薬剤師にしたかったらしい。
その時、岡山県から富山薬専へ進学した祖父の同級生は3人。一番の仲良しだった人は、太平洋戦争で亡くなったそうだ。
学徒出陣
真珠湾攻撃が起きた時、祖父は専門学校3年生。その後、学徒動員第一陣として従軍。
鳥取から北九州、船で上海、サイゴン、シンガポール。目的地のビルマ(現:ミャンマー)へ。
祖父は最初ラムレイ島にいたが、のちにビルマ本土へ。
昼間は敵と小競り合いをしていたが、夜中に切り込みに行く命令が下る。
祖父が先頭になって進んでいったが敵も夜襲に備えており、祖父のそばで手りゅう弾がさく裂。近くにいた部下は「祖父が死んだ!」と思ったが、祖父はとっさに倒れたことで死なずに済んだ。そのまま斜面を滑って、自分の部隊とはぐれてしまう。
顔面を負傷し、眼鏡もない。味方はどこにいるか分からない。当時は「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」と言われていた。祖父もそれに倣って「このまま捕虜になるくらいなら」と持っていた手りゅう弾で自決しようとした。すると手りゅう弾の火芯が抜けてしまって使えなくなってしまった。
(というか、ここで自決成功していたら私は今ここにいないわけだが)
仕方がないので頭に記憶していた地図を頼りに部隊へ戻ったところ、すでに「祖父は戦死した」と報告されていたのでみんなびっくりした。
そこで大隊長に「お前は一度死んだから死なん」と言われた。その後も死線を4度ほど潜り抜けたけれど、この言葉を心の支えにしていたらしい。
その後は歴史で知る通り。
終戦
インパール作戦が失敗したことで、ビルマにいた祖父も撤退することになった。とはいえ、物資が補給される訳ではないから、戦地から自分たちの足で帰ってこないといけない。
徒歩で移動しながら、敵軍や地元の義勇軍と戦い、仲間を失い、祖父自身もマラリアやアメーバ赤痢に罹りながらもなんとか終戦を迎えた。
終戦記念日の8月15日はまだ移動している途中であり、1週間後に敗戦を終戦を知ったらしい。
しかし、終戦したから「はい終わり!」というわけではなかった。祖父が日本に帰国したのは終戦から2年後。それまではビルマの捕虜収容所に抑留されていたそうだ。wikipediaの記事があったが、かなり過酷な環境だったようだ。(ただ祖父の聞き取りにはそのようなことは書いておらず、「収容所は食べ物があるだけまだましだった」とある)
戦後
祖父は会社に勤めた後、薬剤師として勤務。退職してからは将棋や漢詩、俳句などをしながら元々やりたかった畑をしながら過ごして、2014年に94歳で亡くなった。
祖父の記憶
私は小学生の頃、学校から帰ると近所の祖父母の家で過ごした。私の記憶の祖父はどうだったか。祖父は物静かな人だった。子ども心に祖父に怖さを感じていたのは戦争の経験があったからかもしれない。
祖父がどれだけのことを話したのかは分からない。もしかしたら親族には話せないこともあったかもしれない。けれど、今改めて「父の涙」を読み直して、もっと祖父のことを知っておけばよかったと思った。祖父のことは分からないかもしれないが、祖父が生きてきた時代を知りたいと思った。
最後に
私も小学校の頃、祖父に戦争体験を聞こうとしたことがある。まだ子どもだったので祖父からはほとんど話が聞けなかったけれど、今でも忘れられない話がある。これは「父の涙」にも載っていない。
学徒出陣と決まった時、祖父は曽祖父がそれを喜んでくれると思っていたそうだ。曽祖父は従軍経験があり、警察官だったからだ。
しかし、曽祖父は祖父にこう言ったそうだ。
「戦争になんて行かなくていいのに」
この話は私が忘れられない祖父の戦争体験である。