終戦記念日に寄せて 『戦友』
亡き父は、昭和の父親らしい寡黙な人であったが、時折茶目っ気ものぞかせ地は陽気な人だった気がする。
私は男ばかり3人兄弟の下に年を離れてできた女の子で、父には可愛がってもらった。
父はあまり戦争の話はしなかったけれど、寝かしつけに食料がなくて飢えた時の事を、木の実を採ったり工夫して罠をこしらえて魚を捉えたりと冒険物語りのように話してくれて、小さな子供の頃はあまり戦争の悲惨さをわからなかった。
少し大きくなってから、そんな父がひっそりと涙を流し、呟くように軍歌を歌っているのを見かけたことがある。
父が一人遅く晩酌をしていた時だ。
子供心に父に戦争での悲しい思い出があったのだなと感じ、そっとそこを離れた。
歌っていたのは「戦友」だったろうか。
この歌を覚えた私は、時折口ずさんでみて戦争と父の悲しみを想像した。
そして何だか涙をこっそり堪える気持ちになるのだった。
父の晩年に、私から戦時下の話を聞ける間に聞いておこうと、良さそうな時を見計らって聞いて知ったのは、父が南方の戦線にいたこと、食べ物の工夫の話しは補給船が途絶えた後の食料不足、激しい飢餓の中でのこと、水も飲めない中ワニのいるドロ水の川に飛び込みそうになる兵を止めなければならない狂いそうになる行軍、捕虜になって帰還、、そんな状態の話しだっという事。
補給船の来なくなった終戦約一年前に、もう日本は負けるなと思い、あとは皆でできる限り生き延びるためにはどうするかを考えたと言う。
終戦後の父の写真は痩せこけていた。それでも、ジャングルはとても綺麗だったよ、と言った父の笑顔は心からの本心だったと思う。
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「戦友」を調べてみた。日露戦争時の戦いの軍歌で人気があり、哀愁を帯びた曲や歌詞から太平洋戦争中は禁歌だったのだが、兵隊ソングとして認知され愛され続けた歌だという。
「戦友」 歌詞(1番)
此處(ここ)は御國(おくに)を何百里(なんびゃくり)
離れて遠き滿洲(まんしゅう)の
赤い夕陽(ゆうひ)に照らされて
友(とも)は野末(のずえ)の石(いし)の下(した)
・・・・・・・・・以後14番まで
合掌
もし、戦争を体験している身近な人がいたら、勇気がいるかもしれないけれどちょっとお話を聞いていませんか。機嫌が良さそうなときに、、少しづつでも。