八日目の蝉
著者は角田光代さんという神奈川県出身の方。読売新聞で2005年から新聞小説として連載された。2007年に単行本が発行。非常に人気でテレビドラマや映画にもなっている。
著者の小説を読んだのはこれが初めてで、映画で見たのが非常に印象に残っていたため原作を読んでみようと思い、手に取った。映画を見たのがずいぶん前なのでどんな感じだったかだいぶ忘れてはいるが読み終わって大体は覚えていたなと思った。またその記憶を頼りに映画と原作の違いを感じながら読んだ。
物語のあらすじは不倫相手の男の家庭に生まれた子供を誘拐し、自分の子供のように育てた女性の逃亡劇と、その後学生になったその子ども(女性)が過去を振り返るというもの。逃亡劇が第1部で子どもの振り返りが第2部という構成。第1部はサスペンスのようなスリル感が感じられ、主に主人公視点で物語が展開していく。第2部は主人公の視点と、ときおり事件のルポルタージュが入るような構成になっており、物語を非常に立体的に見せてくれる。
映画版では第1部と第2部が交互に入れ替わるような構成であったが、ルポルタージュ的な後日談が加わっている本書では事件の周辺の人々の証言なども違和感なく挿入されることで、映画よりも立体感を感じさせる。
本書は「母性」をテーマにしている。血のつながらない母親が子どもへの「無償の愛」として献身的に(誘拐しているが)育てている。映画のクライマックスでも警察の取り囲まれるときに最後に発した言葉は「その子は朝ご飯をまだ食べてないの」で、もう捕まるというときに子ども朝ごはんの心配をしていた。子どもも大人になって自分の子どもを堕ろさずに産むと決意するときにこのシーンを思い出す。母親の子どもに対する深い愛情を感じさせる名シーンである。
一方で父親は不倫はするし、不倫がばれても奥さんを離婚することもなく、かといって不倫をやめることもなく、ずるずると現状維持を図るだけで非常に無責任な対象として描かれており、子育てにまったく役割を持っていない。父親の無用さも母性を強調する役目を果たしている。
長編小説であるが面白すぎて長さが全然苦にならい傑作だと思った。
ただそれだけでは面白くないないので少し付け足しの見方を考えてみる。本書は2011年に文庫化しており、巻末に本書は過激なフェミニズム小説という側面を持つという解説がされていた。確かに上記の母親とその相手の父親のコントラストを考えるとそうだと思う。(ただ作者にその意図はないと思う。そうだとすると女性=母が強調されすぎてそれはむしろ伝統への回帰になってしまう)
一方で確かに無償の愛として感動的に描かれているが、冷静に考えれば誘拐された子どもは予防接種や各種検診はおろか病院にもまともにかかれない境遇へおいやられており、その責任の半分を担うのは母親である。(今だと「親ガチャ」失敗みたいな表現か)確かに父親は悪いが、子どもからみたら母親も同様である。それはその後の「母性」によって免罪されるものではない。また子供を誘拐された夫婦は誘拐されている間に子ども(女性)が新たに生まれており、急にできた姉とぎくしゃくした両親の間で気を使いながら生きているし、逃亡先の1つであった宗教施設で出会った子どもは母親に連れられて長年その施設で暮らしていた影響で成人してもうまく異性関係を築けなくなってしまっている。
つまり母の身勝手な行動で子どもが非常に苦労する小説としても読めるのである。なぜ父ではなく母の身勝手なのかというと父親はこの小説上は「いない」からである。もちろん父親はただ逃げただけだが「母性」を強調することで母親の偉大さ(父親の不用さ)が増す一方で、その後の子どもの人生への帰責性も増してしまうという構図である。(実際もどってきた家の息苦しさはおおむね母親によって醸成されていた)
まだ今の時代では解説としてフェミニズム小説と評価するだろう。ただ時代がもっと進んだときになんと評価されるのか。そういう意味では「母性」だけでなく様々な要素、人間の様々な要素、を含んだ重層的でたくさんのインスピレーションを与えてくれる素晴らしい本である。
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