男子校文芸部は性愛のイデオロギーを相対化する
世田谷学園文芸部のOBと顧問の対談企画です。
中高を文芸部で過ごしてきた経験がどんな逸材を生み出すのか、お楽しみください。
今回は、昨年2020年8月~12月にかけて行われた対談の前編です。
鵜川 はいどうも、始まりました文芸部OB対談。第2回目の今回は、矢口陽二くんに来ていただきました。それでは、軽く自己紹介を。
矢口 こんにちは。2016年度に文芸部の部長をしていた矢口です。大学入学と同時に京都に来て今年度で二年目です(注:2020年時点)。今は大学近くのキリスト教系の寮に住んでいます。学部では経済社会学をやろうかと考えています。それと今年になってから学部の知り合いと二人でセクシャルマイノリティーに関する勉強会を始めました。軽くと言われても大盛にする癖があるので、アニラジとかSFとか趣味の話はおいおいします。
鵜川 もう二年目か。あっという間だねー。
大学での学びから農業へ
鵜川 経済社会学ということは、高校の頃から、大きくは興味の方向性は変わってない感じかな。どうだった、大学での一年間は。
矢口 ぼやぼやしているとすぐ四年たちそうで焦りますね。
入学当初は想像していた大学生活と違って面白くなかったです。経済社会学もそうですけど、学部の同回生と興味関心が噛み合いませんでした。自分はコミュニティや農業、生態学にも興味があって、サークルも農学系に入って。寮の外だと文学部の人より農学部の人と話してました。秋以降に学部の社会学専修の人がやっている読書会に参加し始めてから、少し面白くなってきました。大学での振る舞い方を模索している一年間でした。
鵜川 たしかに。矢口君は、俯瞰して分析的に学問をするより、フィールドワークで現場に入っていって社会変革含めて考えていくタイプに見えるわ。文化人類学寄り、な感じ。農学も、机上で終わらない学問じゃない。生産とセット。しかも、食とかかわる以上、他の学問よりも生きることと近いところで結びついている。
って僕は門外漢なので、完全にイメージで語ってるけど。
矢口 社会変革までつなげられるほどの力とやる気があるのかはわかりませんが……(笑)
やはり分析だけっていう学問は面白くないですね。何かを学ぶときには、自分の生活との関係性や距離感について意識するようにしています。おっしゃる通り、生産や食から自分の生を考えたいな思っていますし、ジェンダーとか国民国家とか新自由主義とか自分との距離感がはっきりしているものに関心があります。逆に距離感がつかめないものは苦手です。何を学ぶにせよ、ある種の必要性に迫られて学んでいるところがありますね。
鵜川 だとすると、なおさら矢口君の所属している農学系サークルの活動が気になってくるわ。具体的に、どんなことをしているサークルなの?
矢口 和歌山の省農薬みかん農家の栽培のお手伝いをしながら、みかんの木や病害虫の調査をして、収穫後は販売もしています。一般のみかん園(慣行栽培のみかん園)では、病害虫の影響のないきれいなみかんを育てるために、年間に農薬を10回以上散布します。一回も農薬を散布されていないみかんは無農薬みかんということになります。省農薬みかんは、ざっくり言えば、農薬散布の回数を減らしたみかんということです。
鵜川 がっつり農業なのね! 楽しそう。
学園でも、昨年度から新しく入った技術の先生が、学校の敷地内に農園を作ってて、7月にも中3の生徒が畑仕事してたよ。やっぱり、人の口に入る物に関わるっていうのは大事な学びに結びつくよね。
でも、高校生の時は、農学関係の話はしたことなかったじゃない。そのサークルに参加するきっかけとかって、何かあったの?
矢口 確かにしたことないですね。でももともと土いじりは好きでした。幼稚園生の頃、定年退職した祖父が農家から土地を借りて家庭菜園をしていて。小学生の高学年までは、たまに行って枝豆やら大根やら収穫してました。中学に入る前に祖父は亡くなって、中高と畑仕事のことは忘れてたんですけど、入学直後4月の健康診断の日にもらったサークルのビラを見て「そういや僕って土いじり好きだったわ」と思い出したんです。
鵜川 なるほど。矢口君のルーツを見た気がするわ。
恋愛/性愛イデオロギーと複雑性
鵜川 ところで、さっき読書会の話をしていたけど、印象に残ってる回とか本とか、あったりする?
矢口 難しい質問ですが、強いて言うなら池田弘乃「ケーキがあるのになんでセックスなんかするの?――『アセクシャルと法』を考えるために」(綾部六郎 池田弘乃編著『クィアと法』第1章)の回ですかね。アロマンティック・アセクシャルについて扱った文献です。
鵜川 アセクシャルは、LGBTQへの社会的認知の高まりの延長で、よく目にするキーワードだよね。恋愛イデオロギーや性愛イデオロギーに対するカウンターとして認識しています。つまり、性別を問わず他者に対して恋愛感情や性的関心を持たないメンタリティのこと、という理解でいいのかな(アロマンティックは初めて聞いた)。
矢口 おおまかな方向性は合っています。ただし、実は日本語の場合、用語の定義を巡る混乱があるんです。本来、アメリカなどの英語圏では、ロマンティックが恋愛感情の度合いを、セクシャルが性的欲求の度合いを表します。例えばアロマンティック・アセクシャルは、恋愛感情も性的欲求も持たない状態を表し、ヘテロロマンティック・デミセクシャルは、異性に恋愛感情を抱くが、性的感情はごくまれに、親密な相手にしか抱かない状態を表すんです。
しかし日本語のコミュニティの場合、twitterやコミュニティサイトを中心に、アロマンティック・アセクシャルを「アセクシャル」と表現し、ロマンティック・アセクシャルを「ノンセクシャル」と表現するといった独自の定義が用いられています。結果、セクシャルの方の認知度が低いのだと思います。学術論文の多くは、英語圏の定義を採用していますが、学部生の卒業論文だと日本語圏独自の定義を用いているものもままあって。どちらの定義を採用しているのか見抜けるようになるまでは面倒ですね。
2016~2017年ごろは、このwiredの記事の邦訳が、日本語で読めて、わかりやすいものとして定評がありましたね。というかこの記事ぐらいしかまともに日本語で読めるものが無かったんです。
鵜川 学術的に扱おうとすると、確かに定義問題は避けては通れないね。
でも、この辺りの議論、個人的には、恋愛や性愛を絶対視するイデオロギーを転換するきっかけとして注目しています。つまり、個人の性質としてLGBTQやアロマンティック・アセクシャルを定義するんじゃなくて、関係性の様態として、より自由な在り方を許容するというか。
自分の経験を思い返してみると、友人として尊敬して親しくしている相手が、たまたま異性だったというだけで、周りから茶化されたり勘繰られたりすることが何度かあって(ほんと、めんどくさい)。僕自身は、セクシャリティの分類としてはヘテロになるんだろうけど、それが性質だって言われると抵抗があるかな。
矢口 その意見には僕も同意します。恋愛や性愛を相対化するという契機はありますね。僕も高校の時、そういう種々の議論に触れて、もっと自由に生きていいし、もっと自由な関係性を他者と結んでいいんだと思って楽になりました。僕は分類するなら、今バイロマンティックアセクシャルかなあと感じています。ただセクシャリティーって僕の中では性質より感覚に近い。だから明日や一年後に違っていて構わないんです。気になっている部分が、ある日気にならなくなったり、どうでもいいと思っていたことが、夜も眠れない悩みの種になったりしますけど、それでいいんです、僕は。
異性と仲良くしているだけで、茶化されたり勘繰られたりという話は、今でもけっこうあるみたいで、よく耳にします。それこそ同性とは友達にはなれないという「性質」でもあると思われているんですかねえ。
鵜川 「感覚」や「価値観」の問題が、「性質」の話にすり替えられていることって、多いよね。これがひどくなると、原理主義的になる。そうすると、ますます自分と異なる考え方を受け入れられなくなるし、最悪の場合、排斥しにかかる。
セクシャリティに関する話題に限らず、歴史的に排除されたり無視されたりしてきたマイノリティの存在が明るみに出ると、マジョリティ側のコア層が急に攻撃の手を強めるじゃない。性別、人種、宗教といった問題だけじゃなく、場合によっては「小説を書いている」なんてだけでも、攻撃対象になることがある。マジョリティ側の人にとっては自分の「性質」が絶対で、それを脅かす存在は、自分のみならず社会の安定までも危うくさせている、という認識なんだろうな。
矢口 これはマイノリティに対してマジョリティが用いる常套手段ですね。ある「感覚」や「価値観」を、受け入れられない、攻撃してしまうというのは、複雑性に耐えられないからでしょう。社会は本来複雑なもののはずで、多様な人間がいるわけです。でもマジョリティって、ジェンダーにせよ人種にせよセクシャリティーにせよ、ある点においては、自分たちの「感覚」や「価値観」を相対化しなくても生きるのに困っていない人たちのことですから。新しい「感覚」「価値観」に触れても、どう向き合っていいのかわからないことが多い。そんなことを何でもかんでも初めから分かっている人なんてほとんどいませんし、考えればいいんです。でも自分の信じてきたものを疑うのはかなり手間がかかるし、苦しいんですよ。「性質」と言って済ませてしまえば、排除してしまえば、苦痛を感じながら考える必要はなくなりますからね。自分の「感覚」「価値観」が「普遍的」な「普通」のことになりますから、複雑性はなかったことになります。もっともある場面においてはマイノリティでも別の場面ではマジョリティになりうるし、その逆もあるわけです。僕も気を付けないといけないし、指摘されたときには向き合いたいと思います。これがすごく難しいんですけど。
権力関係を超える
鵜川 それで言うと、男子校っていう環境は、いろいろと考えなきゃいけないと思うんだ(注:世田谷学園は男子校です)。男子校がダメ、ってことじゃなくて、男子校だからこそできる教育、あるいはやらなくちゃいけない教育がある。学校空間が性的なこと(ジェンダーかセクシャリティかにかかわらず)を扱いたがらないとしても、現実問題としてそれは必要だし、だから現場サイド(教科や学年)は色々な活動や学びの場を作っています。
矢口君自身、中高と男子校で過ごしてきた身として、今の学校に何が一番必要だと思う?
矢口 「権力関係にある当事者と対等に接し、議論しようと模索する機会」ですかね。ちょうどそういう話を女子校出身の人としていて、「他者と対等に接し、議論するのって大事だよね」というのが共通了解だったんですよ。勿論誰とでもそういう風に接することができたら大抵問題はありません。でも僕は「権力関係にある」の部分をあえて足してみたい。「権力関係にある」人同士が勝手気ままに話しても、「対等な議論」は成立しません。例として、異性愛者の一対一のカップルを取り上げてみましょう。男性側が「女性が家事をするのは当たり前で、男性はしなくてよい」と考えていたらどうでしょうか。家事の分担に関する「対等な議論」はおそらく成立しません。多分手間のかかることは女性に押し付けられると予想できます。仮に女性側がこの分担はあまりに不均衡だからと、男性側にもっと家事をやるよう言ったとしましょう。男性側はうまいことはぐらかして応じないかもしれませんし、応じたとしても「譲歩してやってあげた」と感じるでしょう。「譲歩したんだから、あなたも他のところで譲歩してくれ」と言い出すかもしれない。
なんで唐突にこんな例を出すかというと、大学で京都に来てから、方々でそういう話を耳にするし、実際自分の目でも見てきたからなんです。「自分は他人と対等に接し、議論することができる」と思っている人でも、自分の持っているバイアスや社会の言説の影響を受けているわけです。だから「対等な議論」をしようと試みても、実際には全然成立しないことが多々ある。成立しないからもういいや、ということではなくて、成立しないなりに、どうやったらもう少しマシに話し合えるのか、話し合いながら模索していく姿勢を身につけることが大事だと感じます。
性的なこと、に引き寄せて言えば、学校で性的な知識を普及する目的の性教育って別にいらない気がするんです。例えば「みんなに性行為に関する知識があった方がいい」ってそれ自体すごくセックスポジティブな言説だし、そういう言説を問い直す術を身につけずに、知識だけ増えていく方が害悪です。それよりはむしろ、性的な関係を持つ人ができたときに、適切な情報を入手する方法を知っており、情報に基づいて、性的な関係を持つ人と議論し合って、性行動を決定できる。その意思決定に際して障害となるようなバイアスを、話し合いの中で発見し、相対化できる。こういうことの方が重要だと考えます。でも人との対話の中で失敗しながら学ばないと身に着かないことですから、失敗を許容する環境は学校の中にあった方がいいですね。かなり抽象的な答えになってしまいましたが(笑)。
性的同意とメディアの影響
鵜川 対話の経路を開いておくというのは、すごく大切なことだと思う。
近頃、ようやく「性的同意」についての議論が活発になってきたな、と感じていて。矢口君の言う「性行為に関する知識」より「話し合いによる性行動の決定」の方が重要、というのも、突き詰めて言えば「性的同意」の話だよね。正確な知識なんていうのは、今の時代、その気になればいつでもどこでも誰でも得られる。むしろそれよりも、性行為に関する対話をパートナーとの間で行うことが当たり前だ、という価値観が広まることの方が重要。知識は、求めていない人間には開かれていないんだもの。
ポルノ(多くは映像だけど、それに限らず)が、性に関する知識や認識を歪めているという批判は昔からあって、ただ、そこに「性的同意」の話が入ってきたのは、最近の話だと思うんだ(少なくとも、僕が読んだのは2018年ぐらいだったと)。要するに、多くのポルノには「性的同意」のプロセスが描かれていない、という話。そもそも、映画やドラマも含めて、そのプロセスが描かれている作品は、すごく少ない。
(もちろん、「性的同意」を重視する価値観自体が新しいということもあるのだけれど、大人同士のコミュニケーションとしては、全くなかったわけじゃないはずなのよ。ところが、フィクションとしては不自然なまでに描かれてこなかった。せいぜい、定型化された「今夜どう?」的なやり取りぐらい。『クレヨンしんちゃん』でもあったような。)
矢口 言われてみれば「性的同意」は意識していますね。ポルノと実生活は地続きなんじゃないかというのは、大学に入ってから感じ始めました。また自分の見聞きした話、あるいは自分の身に起こった話になりますが、性行為がファストフード的に実施されていることがけっこう多いです。
性行為って、ここでは主に男女の性行為の話をしますけど、「性的同意」を取ったり、どうでもいい話をしあったり、お互いの身体の具合を確認したりと、「性器の挿入」やオーガズムのみに回収されない多様性があるコミュニケーションのはずなんですよ。でも周りのカップルだと、日々の作業のようにとらえられていることも多々あって。「性的同意」も「余計な会話」もそこには存在しないし、女性側が男性側の要求に付き合っているということもけっこうある。
同様にポルノも多くの場合、そういう多様性が存在しなかったり、十分な長さがあっても「性器の挿入」というクライマックスのための前座みたいな扱いだったりしますね。
でもポルノが認識を歪めているのかは僕にはわかりません。「ポルノにもマスターベーションにも他人とのセックスにも話し合いの契機みたいなものはいらないし、性行為をしているという事実だけで、自尊心が満たされる」みたいな人にもよく会いますし。ポルノに多様性があった方がいいなというのは感じますけど。大体僕がこう感じるのも、性行為にあまり重きを置いていなくて「コミュニケーションの一手段として採用する人もいる」ぐらいに相対化しているからかもしれません。
鵜川 2014年に刊行された村瀬幸浩さんの『男子の性教育』が結構いい本で、同僚や保護者にも紹介してるんだけど、その村瀬さんのインタビュー記事に「勃起と挿入だけにこだわるセックスは貧しい 豊かな人生のために相手の性を知ろう」っていうのがあって、それを思い出したわ。(これは前・中・後編と続く連続インタビューの後編。前二回も良記事でした。)
あとは、こういう話題で、ポルノだけに焦点化してしまうのもいけないんだろうな。メディアとしての影響力ということで考えるなら、映画やドラマ、漫画やアニメ、そしてゲームの方がはるかに大きい。そもそも、ポルノビデオをドラマ部分含めて鑑賞している層って、それほど多くはないのだろうし。だからこそ、行為そのものの描かれ方だけが問題視されてきたんだろうけど。
仮に、行為レベルに絞って考えるとしても、パートナーと行う行為のアイディアとして、あくまでコミュニケーションベースで考えるなら、必ずしも害悪ばかりではないかもしれない。その場合、嫌なことは嫌、と言えることが大前提だけど。
メタ・コミュニケーションの限界と権力関係
鵜川 結局、コミュニケーションなんだよね。だから、意思の疎通が重要だし、多様であるべきだし、そこにどんなイデオロギーが潜んでいるかを自覚する必要がある。そのためには、メタ・コミュニケーション(コミュニケーションについてのコミュニケーション)が欠かせないんだけど、これがまた、苦手な人が多いんだ。
矢口 メタ的な思考や行動を起こすのって、何かしら先立つ経験がないと難しいですよ。高校生にも大学生にもメタ的に振る舞う機会って掴もうと思えばいくらでもありますが、意識しないといつまでたっても身に付きません。高校でも、メタ学習(学習について学習する)をすることはできるわけです。あとはメタ観察(観察について観察する)ですかね。後者は例えば、二次観察のことですね。「Aさんの発言は反権威主義的だ」と考え、述べている人がいるとしましょう。これを一次観察といいます。これに対し、一次観察で用いられている区別に、発言が権威主義的区別(権威主義的であるか否か)に基づいて観察されているということに、注目するのが二次観察です(詳しくはニクラス・ルーマンの社会システム理論を参照してください。クリスティアン・ボルフの『ニクラス・ルーマン入門』なんかがオススメです)。
鵜川 メタ認知能力を高める教育活動は、この五~十年ぐらいで一気に増えてると思うよ。自己客観化とか感情のモニタリングとか、小学校でもそれに類する活動は行われてるみたい。ただ、中高だと学習に偏りすぎてるかも。ルーブリックによる自己評価とか、学習のリフレクションとか。ポートフォリオも学習ベースになりすぎてる面が否めない。
矢口 話がそれましたが、そういうメタ的な振る舞いをする機会がないのに、パートナーとメタ・コミュニケーションを取れ、という方が無理があります。メタ学習やメタ観察は失敗しても、また取り組めばいい。でもパートナーとのメタ・コミュニケーションの失敗は関係性の危機をもたらしますからね。最初にパートナーとのメタ・コミュニケーションから取り組もうとするのは難しいです。相手のいることですから。
鵜川 もちろん、いきなりメタ・コミュニケーションから始めるってことではないのだけれど、お互いにどういう関係性を築いていくのかっていうのは、関係が深まっていく過程で、それなりに話をして調整していくもんじゃないの?
というか、例えば友人関係から恋人関係に変化した場合って、コミュニケーションのモードが変わると思うんだ。そういう時って、お互いに居心地のいい地点を目指して調整をしていくもんじゃないの? 僕の周りが特殊なのか? それとも、時代/世代?
矢口 うーん。僕は割合話し合いたい方ですよ。ただ僕の女性の知人・友人には、話し合いたいと思ってるのに、恋人の男性が取り合ってくれなかったり、言いたいことは決まってるのに、男性側に言い出せなかったり、面倒くさがって言わなかったりすることがあるみたいです。結果彼女たちが一方的に折れることになって、不満がたまっているという相談をよくされます。世代感覚なのかどうかはわかりませんね。恋人とのコミュニケーションがうまくいっていない人とばかり友達になってるからかもしれませんし。
鵜川 エビデンスのない状態で話しても空中戦にしかならないので、これ以上、メタ・コミュニケーションの有無の話を続けることは難しそうね。
ただ、少なくとも言えそうなのは、コミュニケーションのモード調整が苦手な人や、調整に取り合わなさそうな人が一定数いて、そのせいでつらい思いをしている人がわりとたくさんいる、ということかしら。
聞いている感じだと、コミュニケーション能力の問題というより、力の不均衡が原因な感じがする。これって、恋人関係だけじゃなくて、友人や職場でも同じことが言えそうね。よりよい関係性の構築ではなくて、関係性の維持だけが目的化されると、メタな調整は敢えて行わない。むしろ、そういうことを言うと、場を乱しているとみなされてしまう。
矢口 正にそんな感じです。恋人同士でも、親子でも、バイト先でも、間違いなく力の不均衡の問題はありますね。メタ的な調整が意図的に行われなくなるというのはその通りだと思います。またエビデンス抜きの話になってしまいますが、力の不均衡によって、調整の不実施が常態化したら、癖になってしまうというか。自由闊達な議論の場を設定しようとしても「場を乱さない人」として振る舞ってしまう。うまく「場を乱さない」人という像に順応できる人はいいですけど、言いたいことがあるのに調整が苦手だったり、取り合わなさそうな人と直面したりしたら、辛いと思いますよ。現に普段顔を合わせる範囲の人も辛そうですし。
(後編はこちら↓)
矢口 陽二(やぐち ようじ)
鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・文芸部顧問/小説家)
Photo by Jordan McDonald on Unsplash