ぼけなす時間タイムリミット制限
「ちょーたいへんだった」とか「ちょーむかつく」とかの”ちょー”はおそらくこの”超”だろうと思う。
言葉の響きはじつにバカっぽくて、現代の若者への憐憫、延いては今後の日本の行く末を憂いて夜も眠れなくなるという気持ちも分からないでもないが、ちょーがないとないで「普通のものよりかけ離れ、とび越えて大変だった。」「普通のものよりかけ離れ、とび越えてむかつく。」みたいになって、それはそれでもっと要領良くできないのかとイラついたりしだすと思うので、むしろ現代の日本は超にちょー助けられているといっても過言ではない。いやマジで。ちょーハンパなくチルい。
しかも大変とかむかつくとかもまじめにやると「普通のものよりかけ離れ、とび越えて心労著しい。」「普通のものよりかけ離れ、とび越えて憤りを抑えきれない。」みたいに伝えたいことの解像度は上がるけど今度は言語に頼りすぎて不自由になる可能性がある。本来、個人の感覚は夢でみた世界のどこか現実でない雰囲気を容易には表現できないように、そもそも言語化できないことがほとんどだ。だから日常会話としては「ちょー大変」でも実は構わなくて、その言い方とかタイミングとか言葉の裏側に隠されている真実にこそ意図が宿るのだと思う。どう大変だったか知りたければ聞くだろうし、興味もないのに「心労著しい」とかいわれたら面倒になりそうだなと察して人は忙しいので離れていくのが常だ。
逆にこの意図を駆使して、はっきりとものは言わないのに不快感だけを増幅させて忍ばせるのが非常に巧みな人もいて、そういう人に出くわすと胸がキュッとなるので困る。そういう人と仕方なく生きていくためには言葉はなるべくちょーの方がよかったりする。昔世話になった恩人みたいな大切な人ともあと顔を合わせるのは長くとも数時間程度だというのに、何を目の前の嫌なことば製造マシーンに1秒でも時間を割く必要があるというのか。ばかばかしい。
どんな言葉の意図にも映画みたいに字幕をつけられるなら「実際に言ってること」と「字幕で見える意図」はほとんど一致していないと思う。
それならたとえ目の前の人が「憤りが」とか言ってたとしても、むしろもっと話を聞いてみたいとか、もっと知りたいと思える人たちと会話していたい。
だって字幕は見えないし。
どうせなら日本語吹替で。
いや、いつもはしんどいか。