
【ネタバレ】『ハウス・オブ・グッチ』を見たが、文句をつけ所がいろいろとありそうだ。
リドリー・スコット監督の最新作、『ハウス・オブ・グッチ』を昨日、見まして。いろいろ思うことがある映画でした。
とりあえず、スコット監督、お疲れ様です。御年84歳なのにもかかわらず、若手映画監督には負けん!と言わんばかりのそのパッション。ついこの前『最後の決闘裁判』(2021)を公開したばかりなのに、もう新作を出せてしまうとは、、、本当にすごいです。
スコット監督といえば、僕のイメージではあるんだけども、「フェミニズム」をテーマにした作品を発表していることが多い。
例えば、ついこの前の『最後の決闘裁判』(2021)は、男が台頭していた社会において、自分の権利のために戦った当時としてはかなり異端な女性の物語。これは間違いなくフェミニズムを感じられる作品だった。しかし、中世ヨーロッパの時代性もあって、実際に決闘するのは男たち。自分の夫が決闘に勝っても、称賛されるのは夫。自分の権利は回復しても、それは事実ではなく、男の「成果」によるもの。そのようなかつてたしかに存在した制度を描いた作品だった。
もっと遡ると、超有名SFシリーズの『エイリアン』(1979)もリドリー・スコット監督の初期の傑作であり、彼のフェミニスト的性格が顕著に表れている。男性器の形状をした頭を持ち、液体(精液?)を口から垂れ流し、女性(主人公のリプリー)を追い詰める。しかし、そのような男性性を表現するようなエイリアンを最終的にリプリーは退治し、物語が終わる。このような象徴的な表現は「エイリアン・フェミニズム」と呼ばれている。(出典)
さらにさらに、『テルマ&ルイーズ』(1991)もフェミニズム映画だ。強権的な夫、そして自らをレイプしようとした男を殺してしまったことから逃れる、女性二人の物語。自分を追う男性たちを翻弄していく様子はあまりに爽快である。悲劇的ではあるが、不思議な穏やかさのあるエンディングは映画史に残るような出来だ。
ほかにも、『G.I.ジェーン』は、とある女性議員の男女平等の考えによって、男性ばかりの軍隊に送られた女性兵士が、その軍部内にはびこる差別と闘うという物語だ。女性であるというだけで、わざとらしく譲歩されることを嫌った彼女は、「平等」になるために、自身の髪を剃って丸坊主姿になる。「平等」には、女性側から歩みよらなければならないのか?という問題提起を掲げた作品だ。
このように、僕の中では、リドリー・スコット監督はフェミニストであり、彼の映画は有害な男性性と、それを打破するために奮闘する女性(たち)を描いたものであることが多いという認識なのだ。
だから当然『ハウス・オブ・グッチ』もそのような目線で見させていただいた。その結果、それほど良い印象を抱けなかった。
フェミニズム視点以外でも、いろいろと受け付けられない点があった。
その理由をいくつか挙げてみよう。
1.スコット監督のフェミニズム視点と、この映画の史実がうまく噛み合っていない気がする
さっきから言っているように、スコット監督作品のフェミニズム視点のキーワードといえば、「有害な男性性と、それを打破するために奮闘する女性」というものだった。
それをこの映画に当てはめた場合、、、というか当てはめられない気がするのである。僕には、グッチに有害な男性性があるとは思えなかったし、レディー・ガガ演じるパトリツィア・レッジアーニがそれを打破するために奮闘する意義みたいなのも感じられなかった。
これは単純にパトリツィアがグッチの舵を握って、思い通りにしたかっただけで、決して尊重されるべき目的ではないと思う。
しかし、これはあくまで史実なのである。この問題が生じているのは、スコット監督が今まで築き上げてきた、彼の描く「強い女性像」と、パトリツィアの強権的な姿勢というのが、僕の中でまったく噛み合わずに違和感しか感じさせないという点に尽きる。
2.最後のパトリツィアの涙のシーンを入れた意味について、数時間問い詰めたい。
いろいろと突っ込みたいこともあるわけだけど、これが一番。
なぜマウリツィオの暗殺シーンの後で、パトリツィアがマウリツィオとの写真にキスをして、涙を流すシーンを入れた?
あれで少しでも自分の行いに後悔してるみたいなニュアンスを入れてしまうと、パトリツィアのキャラクター描写がズレるだろうが!!
パトリツィアは、自分の思い通りに夫のマウリツィオが動いてくれないことと、彼が自分のことを捨てたという事実に腹を立てて、彼の殺害を決めるわけだけど、それがパトリツィアっていう人物の頭のおかしさというか、そういう異端な部分を表していたわけですよ。通常、人はそんなことで人を殺さないからね。
ただその行動を少しでも後悔させるような素振りを見せると、パトリツィアが人間らしくなってしまうと思うんですよ。決してパトリツィアが人間ではないというわけではなくて、あんな異端な思考回路で人を、しかも自分の夫を殺そうと思うような思考の持ち主なんだから、あの計画をした時点で、パトリツィアの人物像は「異常者」として描き続けるべきだったと思うんだよな。
ただ、アダム・ドライバー演じる、マウリツィオ・グッチが殺害される直前にカフェでエスプレッソを飲みながら思い出し笑いをするシーンは、この映画で一番のエピックシーンだと思います。あの描写を入れることで、マウリツィオの人間くささに関する描写が上手にスタイリッシュに完結したと思うから。しかもあの時計を同時に映画の本当に最初のシーンに持ってくるってのも「うまい!!」って思ったな~ 結局、この映画も『テネット』(2020)と同じで、めちゃくちゃ壮大な夫婦喧嘩だと思うからね。
3.俳優の使用言語問題について
この辺からフェミニズムとはあまり関係がなくなるんですが、俳優がイタリア語を使わないという問題について、ツイッターなどで過激に議論が行われているのを見ました。
これは正直、すごく難しい問題。
俳優が自分とは違う人種を演じる場合、その人の言語を使わなければならないとなったとき、その負担はケタ違いなものになる。でも、もしイタリア語でやったとしても、イタリア語がさっぱりわからない僕には別にイントネーションのミスなんかわからないけど、イタリア語話者にとっては小さな違いが大きな違和感を生んでしまうと思う。実際、劇中でも、アル・パチーノ演じるアルド・グッチが日本語を使っていたけど、もしも彼が日本を舞台にした映画で日本語だけで演技するとしたら、本当に見ていられないと思うから、、、
だから僕の意見としては、使用言語は英語でも問題ないと思うタイプ。でも方言とか訛りとかに関しては、限りなく性格に習得してほしい。どうやらレディー・ガガのイタリア訛り英語に違和感があったらしく、批判があったらしい。こればっかりは難しいんだけどなぁ。
4.ジャレッド・レト、さすがにやりすぎ。
役作りのためならなんでもする男こと、ジャレッド・レト。
それにしても今回はやりすぎだ。ビジュアルではなく演技。
彼が演じる、パオロ・グッチは、なにを話すときも、口の端から「スィ~」と言って、怒っている時もへらへらしている。正直、彼が画面に出てくるだけでイラついてしまう。
強烈な印象を残してはいるし、パオロが無能だったということを表すのには成功しているんだけれども、あまりの誇張された演技に、「これはマジなのか?ふざけてるのか?」というすれすれの印象しか抱けず。
とりあえずパッと浮かぶのはこのくらい。
とにかく終盤のパトリツィアの描き方が気に入らなかった。異常者っていうレッテルを張りつつ、突然ひっくり返ったかのように泣き出す。どういうことやねん!!
『ハウス・オブ・グッチ』、文句しか言っていませんが、やはり映像美は素晴らしいですし、ストーリーも興味深いものです。ぜひぜひ劇場でお楽しみください。
また明日!
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