「あと5年しかない」と歌ったデヴィッド・ボウイ
2013年、ロンドンのビクトリア・アンド・アルバート美術館(V&A)で、デヴィッド・ボウイの史上初の回顧展が開かれた。V&Aは世界各国の芸術、工芸、デザインを専門とする美術館で、この企画展のテーマもボウイのファッションやスタイル、そのデザインなどがテーマだった。160年に及ぶV&Aの歴史でも最速でチケットが売れた企画展となり、改めてボウイの人気と実力を見せつけた。
2000年にイギリスの老舗音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)』がプロのミュージシャンを対象にアンケート調査を行い、最も影響力のある20世紀のアーティストにボウイが選ばれた。この結果は日本人にとってはちょっと意外に受け取られるかもしれない。ビートルズやローリング・ストーンズを差し置いて、なぜボウイだったのか。
その謎を解く鍵は、1972年、ボウイが25歳の時に発表した『ジギー・スターダスト』にある。そして、これはあまり日本では伝えられていないと思うが、このアルバムの影響力は、当時のイギリス社会の置かれた状況を抜きにして語ることはできないということである。
当時の世界は西側諸国の資本主義と東側の共産主義が対立する冷戦下にあった。すぐ目の前には核戦争の脅威がちらついていた。今ではそんな状況も想像がつかないが、1985年の『リヴァプールから手紙』というイギリス映画を観れば、当時の分断された世界の閉塞感が伝わってくる。
映画は、地元のリヴァプールでソ連の船員と恋に落ちた女の子が、彼を追ってソ連に旅立つまでを描いている。東西の個人的な交流が殆どなく、疑心暗鬼だけが渦巻いていた時代に、東側へ渡ることの不安が、全体からひしひしと感じられる作品だった。何が起こっているのか、誰が本当のことを言っているのか分からない、何の保証もない鉄のカーテンの向こうに単身行くことは、一人で宇宙へ旅立つような心細さがあった。自由社会にいても自由を感じられず、不自由であるはずの東側の国に一縷の希望を託さねばならない現実を描いたところに、痛烈な皮肉が籠められていた。
1960年代のイギリスは戦後に比べれば豊かになったものの、国際的には他の先進国に完敗した。67年、ウィルソン首相は、戦後、固定相場制で管理されてきたポンドを14%切り下げることを発表した。「皆さんのポケットにある1ポンドの価値が下がったことを意味するわけではありません」という彼の演説は虚しく響くだけだった。
社会制度は向上したはずなのに、政府と労働者の対立は前よりも一層激しくなっていた。全国にまたがる労働組合による予告なしのスト(山猫スト)が日常化し、その度に社会機能がストップするため、国民はいつもどこか落ち着かない、不安定な生活を強いられた。
1960~70年代はフラストレーションの時代だった。暴動やテロといった暴力と隣り合わせだった。
60年代後半から、過激なサッカー・ファンのフーリガンたちによる暴力事件が毎年数十件、発生するようになっていた。競技場へサッカーの試合を観に行くことは命がけだった。
1968年には、北アイルランドのロンドンデリーで、カトリックへの差別反対を訴えてデモを行っていた市民グループと警察が衝突。30人以上の市民が怪我をする暴力事件に発展した。69年、ウィルソン首相は市民の安全を守るという目的で北アイルランドに軍隊を派遣。街角に兵士が常駐するようになった。
これが火に油を注ぐ結果となり、1970年、武力闘争によって統一アイルランド建国を目指すことを掲げた過激派IRA暫定派が結成され、活動を開始する。これはその後、25年間に及ぶ「ザ・トラブルズ(The Troubles)」という紛争へと発展していく。1972年には、北アイルランドのロンドンデリーでデモを行っていた非武装市民にイギリス兵が発砲して14名が亡くなり(「血の日曜日」事件)、IRAの爆弾で6名の一般市民を含む9名が命を落とす事件(「血の金曜日」事件)が起こってしまう。
60年代に最も多感な時期を過ごし、感受性豊かに成長したデヴィッド・ボウイは、こうした時代から生まれた悲観主義や終末的雰囲気を敏感に感じ取っていたに違いない。
1970年までにはイギリスの90%以上の世帯がテレビを所有するようになり、国民の娯楽のトップになっていた。映像は白黒からカラーになっていたが、当時、テレビ・チャンネルはまだ3つしかなく、なかでもBBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス(TOTP)』は1,800万人もの視聴者を抱える超人気音楽番組だった。当時、イギリスの人口は4,400万人ほどだったから、国民の40%がこの番組を観ていたことになる。
1972年7月6日の夜、茶の間ではいつものように子どもからお年寄りまで家族が揃って、TOTPを観ていた。
そこへ、オレンジ色の逆立った髪に、爪には白いマニキュアを塗り、青白い顔に濃いアイシャドウをつけ、かかとの高い赤いブーツを履き、ほっそりとした肢体に張り付いたカラフルなジャンプスーツを纏ったボウイが、こつ然と現れたのである。家族全員が、この若く、美しく、セクシーな、地球外から来たゲイの宇宙人に釘付けになった。
今と比べると、当時の人々はずっと素朴だった。誰もが質素で、シンプルな生活を送っていた。外食やファッションにお金を使うことなど殆どなかった。大抵の人の服装はコンサバで、奇抜な格好をする者はいなかった。彼らが知っている他のロック・ミュージシャンは、大抵、長髪だったが、服装は地味だった。
今では女装やトランスベスタイトは珍しくもないが、当時の人々はそんなものを公の場で見たことがなかった。ロック・バンドは数あれど、ミュージシャンをゲイと結びつけることはなかった。そんなことは許されないことだった。ビートルズもローリング・ストーンズについても同様だった(ビートルズの急死したマネジャー、ブライアン・エプスタインはゲイだったが、本人を含め、誰もそのことに触れる者はいなかった)。そのほんの5年前の67年まで、この国ではホモセクシュアリティも中絶も違法だったのである。
ホモセクシュアルが違法だった時代には、同性愛者の男性に対し、スタンリー・キューブリック監督の71年の映画『時計仕掛けのオレンジ』の主人公、アレックス(彼はゲイではないけれど)に対して行われていたのと全く同じような「矯正治療」が実行されていた。ジギーの衣装は、アレックスの白いジャンプスーツを色鮮やかにデザインし直したものだ。それは、セクシュアリティをはじめとする、あらゆるタブーからの解放を謳っていた。ジギーの登場は、若者にとって、自由であること、如何なるアイデンティティも恥ずべきものではないという啓示だった。
TOTPで、ボウイは異星から飛来したロック・スター、ジギー・スターダストとして『スターマン』を歌った。「空にはスターマン(異星人)が待っている。君が輝きを放てば、彼は地上に降りてくるかもしれない」。
老人たちはボウイを見て憤慨し、テレビに向かって破廉恥だと罵声を浴びせた。一方、ボウイは未来に希望を失いかけていたティーン・エイジャーの心に火をつけ、彼らは一斉にジギーのポスターを部屋に飾った。このたった一夜のパフォーマンスで、ボウイは若者たちの「救世主」になったのである。
アルバム『ジギー・スターダスト』の最初の曲は『5年間』である。その歌詞はこうだ。
広場を通り過ぎると、母親たちが溜め息をついている
たった今、ニュースが届いた、私たちにはあと5年しかない
知らせを伝えた男は泣いていた、地球は死にかけていた
(中略)
俺たちには5年しかない、目に焼き付いてる
5年間、何てことだ
俺たちには5年しかない、頭がひどく痛む
5年間、それが全てだ
この歌は当時の世相や危機感を言い当てている。あの頃、この国があと5年で終わると言われても、誰も驚かなかっただろう。あの頃の若者にとって、もしも「救世主」がいるならば、それはこの地球上ではなく、宇宙から来るというほうが遥かに信じられただろう(アルバムの物語によれば、ジギーは単なるメッセンジャーで、救世主であるはずの「スターマン」も地球を救ってはくれない)。時代の閉塞感がジギーを生み、それ故に若者は彼に心酔したのである。
ボウイ自身はジギーを演じることにじきに飽きてしまい、翌年の73年には、ジギー・スターダスト・ツアーを止めてしまう。イギリスの各新聞がこれをトップ・ニュースとして報じたことからも、その影響力が分かる。この後、イギリス社会は彼の予言通り、5年後の破滅に向かって、ただひたすら悪化していったのである。
70年代後半から活動を開始したロック・バンド、セックス・ピストルズの77年の『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』も、当時の行き詰まったイギリス社会を皮肉たっぷりに歌い上げている。
女王陛下万歳
ファシズム体制は
お前を白痴にし
水素爆弾にもなりうる
女王陛下万歳
彼女は人間じゃない
未来なんかないのに
イングランドは夢ばかりみてる
自分が何をしたいか
何が必要か指図しないでくれ
未来なんかないのに
未来はないのに
ジギーの消滅と同時に、イギリスではオイル・ショックが発生した。電力が不足し、工場は週3日体制になった。毎週のように全国で停電が発生し、国民はロウソクの灯りで生活するようになる。インフレ率は26%を超えた。
1976年、イギリス経済は遂に破綻し、IMF(国際通貨基金)に23億ポンドの資金援助を要請しなければならなくなった。当時、BBCは核攻撃が始まった時にニュースで流す原稿まで用意していたが、財政が逼迫し、イギリスはソ連からの核攻撃に対する防衛機能を
備えていなかったといわれる。
一方、ザ・トラブルズは混迷を極めていく。IRAはアメリカの支持グループ、リビア、そしてパレスチナ解放機構などから訓練や武器の供与を受け、70年代後半までには洗練されたプロのテロ組織と化す。今では考えられないことだが、79年の総選挙では、投票所に行く市民を守るため、政府は北アイルランドに4万人の兵士を派遣している。IRAテロによる犠牲者は70年代だけでも2,000人を超えたのである。