ゴミと死体の山:組合員たちの暴走
度重なる非常事態宣言と経済破綻、そしてIMFからの借り入れによってイギリス経済もここまでかと思われたが、それは終わりの始まりに過ぎなかった。3年後、混乱の70年代を集約するような事件が起こる。1979年の「不満の冬」(Winter of Discontent)である。
「不満の冬」とは突然辞任したウィルソンから政権を引き継いだ労働党のキャラハン首相が、シェークスピアの『リチャード3世』の台詞から取ってそう呼んだものだ。死体とゴミの山、病院や学校の閉鎖、商品棚が空っぽのスーパーマーケット、そして暖房のない恐ろしく寒い冬によって象徴され、戦後イギリス史における、たいへん不名誉な出来事として記録されることになってしまう。
事の発端は、1977年に起こった消防士組合の事件だった。同組合は10%の賃上げで合意したものの、組合員数名がこれは20%を超す物価の上昇に見合わないと訴えた挙句、組合役員に暴力を振るったのである。警察官がインフレと連動した賃金を貰っていたことも不服であるとした。
組合員らの暴走がエスカレートすることを恐れた政府は、彼らの賃金の20%増を決める。この一連の動きを見た他の組合が、まさにそこで味を占めてしまった。
インフレが少し緩やかになり、15%に留まった1978年の秋、政府は「社会契約」に基づき、賃上げの上限を5%に決定した。
その年、自動車メーカーのフォードの業務は好調だったが、政府の方針に従い、賃上げを5%以内に抑えようとした。これを不満とした労働者たちは山猫ストに入り、参加者は一気に5万7,000人にまで膨れ上がった。9週間、工場が休眠した後、フォード側と組合は17%で合意した。
政府は「社会契約」違反であるとしてフォードに制裁を加えようとしたが、英国産業連盟や議会の反対に遭い、挫折してしまう。こうして「社会契約」が実体のないものであることが証明されてしまう。
これを皮切りに、イギリスは無秩序状態へと突き進んでいく。まずタンクローリー運転手から始まった。一部の運転手たちが残業を巡って交渉を始めた時、企業側は流通が止まってしまうことを恐れ、直ちに15%の賃上げに合意した。当時、全国には17万人のタンクローリー運転手がいて、国内輸送の80%を受け持っていたが、この決定を受け、同業種7万人の組合員が同じ待遇を求めて山猫ストを開始。港を封鎖し、倉庫でピケを張った。
全国の店頭から商品が消え、店の前には食糧や日用品を求める人々の長蛇の列ができた。灯油も運ばれず、当時は殆どの国民がストーブで暖をとっていたため、凍える冬を過ごさねばならなくなった。
組合が組合員の行動を掌握し、誰も彼らを統制することができなくなっていた。直接的に関係のない100万人の労働者もストに巻き込まれ、仕事と収入を失った。
問題はこれだけではなかった。異業種の組合員も便乗して、社会は機能不全に陥ったのである。
電気技師組合のストの影響で、家庭のテレビはBBC1とBBC2を受信できなくなってしまった。当時、テレビ・チャンネルは3つしかなく、その年のクリスマスに国民が観ることができたのは、ITVだけだった。
公共部門の組合員も動き出した。1月22日、全国150万人の組合員が24時間のゼネストを決行した。
ストはこの1日で終わらなかった。学校や老人ホーム、空港が閉鎖に追い込まれた。鉄道もストップした。水道作業員のストで深刻な水不足になり、家庭では同じ水を全ての目的に使い回さねばならなくなった。救急車の運転手がストを行ったため、軍隊が出動して救急サービスを援護するという有り様だった。全国の病院の半分が救急外治療をしなくなった。重病の入院患者や子どもたちまでもが置き去りにされそうになったため、ナースが自発的にやってきて介護を続けた。流通の麻痺で、癌の治療薬や輸血も手に入らなくなった。
何日も回収されない黒いゴミ袋が通りや公園に堆積し、それは建物の2階の高さまで達するようになった。ロンドンのトラファルガー広場やレスタースクエアもゴミ置き場と化した。2階建てバスはゴミの山の間を走った。当然、ネズミにとって格好の餌場となり、不衛生極まりない状況だった。
リヴァプールやマンチェスターでは、墓堀作業員組合が山猫ストを始めたため、埋葬されない死体の山ができた。困った役所は死体安置用の倉庫をリースした。数百という遺体がそこに運び込まれ、その数は日に日に増えていった。市の担当者は、この状態が長引けば、死体を海に捨てることも考えているとコメントし、市民を震え上がらせた。2週間後、14%の賃上げを確保した墓堀作業員はストを取りやめた。
ここで注意すべき点は、組合員全員が喜んでストに参加したわけではないということである。なかには勤務を続けたいと思っている者も少なくなかった。しかし、スト破りは裏切り者とみなされ、仕事を失う可能性があった。前述の通り、組合は職業斡旋所でもあり、個々の労働者に対し、絶大な権力を持っていたのである。ストに参加すれば、逆に組合から手当が支給されるという時代だった。
全国で勃発したストは春先には決着がつき、収束したが、この冬は国民にとって恐ろしく長く感じられ、一連の体験は忘れることのできない後味の悪さを残すものとなった。「不満の冬」は、組合がいかに力を持ち、政府がいかに無力であるかを証明した。
「不満の冬」が起こり始めた当初、キャラハン首相はカリブ海の島で開かれたサミットに参加していた。帰国直後、ロンドンのヒースロー空港で会見を開いた首相は、記者の一人から「現在、国内で高まっている混乱に対し、どのようにアプローチするのか?」と聞かれて、「混乱が起こっているなどというのはあくまでも君の意見だ。偏った見方に過ぎない」と答えた。彼は組合の反乱に動じないという態度を示そうとしたのだが、翌日、大衆紙『ザ・サン』の一面には『危機? 何の危機だ?』(Crisis? What Crisis?)という見出しが彼の写真とともに掲載され、国民の失笑を買ってしまう。実際にはキャラハン首相はこのような発言をしていないにも拘らず、この見出しは彼の危機意識のなさを象徴するものとして、後々まで語り継がれるようになる。
森嶋氏は1978年の『続・イギリスと日本』で、「ストライキが長期間続いて、単に会社が困るだけでなく、一般大衆が迷惑をこうむるようになっても、誰もが文句をいわずに解決するのを辛抱強く待っているのは、イギリス人のデモクラシーへの意志を表しています」と書いた。
しかし、1979年の冬を越した後、これは明らかに違ったのではないか。常識のある国民なら、なぜ組合員ばかりがここまで好きなようにできるのかと感じずにはいられなかっただろう。これはデモクラシーなのか、それともアナーキーか。イギリス社会はその判断を迫られていた。