人頭税は悪くない


 サッチャーを嫌う人たちは、彼女が1989~90年にかけて導入した人頭税が悪しき政策で、これが国民の反対に遭って政権の命取りになったと主張する。
 確かに人頭税はサッチャー政権への逆風となり、彼女の辞任後、首相のポストを争った保守党の3名の候補者は、いずれも人頭税を廃止することを公約した。
 だが、既に述べた通り、サッチャーは人頭税に関する責任を取って辞めたのではない。その直接の原因はEUであり、それによって起こった内閣のクーデターである。
 サッチャーが人頭税にこだわり、それを死守しようとしたことが彼女の犯した最大の間違いであったとよくいわれる。議員になる前、サッチャーは税務専門の弁護士だったから、税制改革に思い入れがあったことは確かだろう。
 だが、なぜサッチャーはそこまでして人頭税を実施しようとしたのだろうか。
 当時、地方自治体の歳入は、中央政府からの助成金と、地方税としての固定資産税「レーツ(Rates)」で成り立っていた。レーツは住居や商業物件から徴収されるもので、家賃の相場から算出され、その所有者或いは居住者が負担することになっていた。
 サッチャーは既に1974年のマニフェストで、このレーツが不公平を生み出しているとして税制改革を掲げていた。79年に政権を取った時、最重要課題の1つだったが、他に優先すべき案件が山積みで、すぐに着手することができなかった。
 政権が2期目に入った84年から、サッチャーはようやくレーツ改革の話し合いを進めることができるようになる。3期目に突入した87年には、レーツに代わる人頭税についての考えがほぼまとまっていた。
 レーツがもたらす不公平とは何か。例えば隣接する全く同じ間取りの物件があった場合、その居住者の人数に関係なく、同額が請求されることである。住んでいるのが単身者であれば、その税金を一人で負担することになり、数名がシェアしていれば、一人当たりのレーツの負担は少なくなる。
 税金を払う余裕がない者にとって、家やフラットをシェアすれば、その義務が軽減された。しかし、不動産の価値には当然、地域差がある。賃貸または所有する不動産の価値が高いという理由だけで、なぜ他の人より多くの税金を払わなければならないのか。そこに住んでいたら、諸事情により、貯金もないのに、たまたまその家の価値が上がってしまい、税金の支払いに困窮する一人暮らしの老婦人がいることをサッチャーは知っていた。
 また、この地方税をコミュニティ・サービスに対する支払いと考えた場合、基本的に全員が同じ公共サービスを受けているのに、なぜ徴収される税金に差が生じるのか。同じサービスに対して支払われるなら、同額であるべきではないのか。
 同様に、商業物件や企業が所有する物件にもレーツが適用されていたが、企業にはその見返りが殆どないにも拘らず、多大な貢献を強いられることも公正ではないとみなされた。
 サッチャーがレーツを取りやめたかったもう1つの理由に、自治体の改革も挙げられる。
 サッチャー政権は、緊縮財政の一環として地方自治体への助成金を削減しようとした。だが、議会の多数を労働党員が占める自治体では、職員の数を減らしてリストラしようなどとは考えず、レーツを上げて福祉や社会サービスの拡充を続けようとした。
 これは不動産所有者や企業への負担を増大させた。しかも企業は自治体の予算の使い方に対し、コントロールする術を持たなかった。サッチャーは、懸命に働いて不動産を獲得した個人や企業が、このような形で罰を受けるのは不公平であり、こうした自治体は無責任且つ非効率であると感じていた。
 サッチャーは、第3代ロスチャイルド男爵といったエスタブリッシュメントたちと相談し、固定資産税のレーツに代わるものとして、住民一人一人が自治体の提供するサービスに対して支払うコミュニティ・チャージ(コミュニティ使用料)、通称「人頭税」を発案したのである。これにより住民は自治体の金の使い道に無関心ではなくなり、自治体も住民に対する責任を担うことで、より良いサービスを提供し、なお且つ節約に努めてもらうという筋書きだった。
 人頭税は低所得者や学生には80%の減額が考慮されたが、基本的には18歳以上の全ての成人が同一税額を支払うというものだった。同時に、商業用物件や企業については、国が決めた課税額を一旦、国税として徴収し、その物件の利用者の数に応じて自治体に還元することになった。
 ここで大きな間違いだったのは、人頭税に関する進捗状況が殆ど公に知らされず、国民にとっては殆ど寝耳に水だったこと、試験的期間もないまま、一気に実行に移されてしまったことである。
 公にすれば、実現が難しくなるという目算があったのかもしれない。蔵相のナイジェル・ローソンが人頭税に反対していたという事情もある。彼はこれが原因で同職を辞任した。
 施行が急速に進んだのは、1987年の保守党の党大会で、環境相のニコラス・リドリーが音頭をとり、「人頭税を数年かけて施行する必要はない。こんなに素晴らしい制度改革は一気に行うべきだ」と促し、大会の参加者に支持されたことが要因だった。
 税額については各自治体に一任されたが、都市においては人の移動も激しく、住人の出入りが物件の所有者にすらあやふやなことも多々あり、正確な納税者の把握は困難を極めた。新しい税制への移行に伴う経費の増加や、商業物件の課税コントロールを失ったことで歳入が激減するのではないかとの思惑なども手伝って、人頭税の税額は政府の予測より何倍も高くなってしまった。
 2人以上の成人がいる世帯や低所得者層への負担が増え、世論調査では国民の70%が人頭税に反対しているという結果が出た。納税義務者の5人に1人が支払いを拒絶し、自治体によっては50%が支払い未納になった。
 国民は税金に対して敏感だ。それが受け入れられる金額だったら、生活のやりくりを心配しなくても済む範囲だったら、自治体による格差がなかったら、そして、もっと丁寧に推し進められていたら、もう少し何とかなったかもしれない。レーツが機能していたのは、それが固定資産税だったため、個人の支払い能力を漠然と反映していたからだった。行政機関の信頼性を高めるはずの改革が、逆に国民の反感を買ってしまった。
 反サッチャーのミリタント系労働党員らは、ここぞとばかりに反人頭税連合を結成し、人頭税支払いを拒否するキャンペーンを行い、抗議デモを始めた。ロンドンのトラファルガー広場には10万人が集まった。
 労働党の支持基盤であり、イングランドより一年先に人頭税が導入されたスコットランドでも猛反発が起こった。
 1993年、サッチャーを引き継いだメージャー首相は人頭税を取り下げ、「カウンシル・タックス」と改め、レーツと同様の固定資産税を復活させた。その理由を彼は「回収不能」とした。
 サッチャーが最後まで人頭税にこだわったことは、彼女の頑固さが裏目に出た例として批判される。
 しかし、人の上に立つ者として、既に多くの人を巻き込み、長年に渡って信じてきたものを容易にひっくり返すことはできない。そうすべきでもないだろう。
 再度繰り返すが、サッチャーを退かせた直接の原因は人頭税が失敗したからではない。サッチャーはそれまで数々の暴動や困難を乗り越え、改革を実現してきた。テロで何度も命の危険に晒されても、友人たちが消されても、屈しないどころか、毅然とした態度を緩めなかった。サッチャーは国民が暴れるぐらいで決心を変えるような政治家ではない。寧ろそれによってさらに意志を強固にするぐらいである。人頭税に対するデモも権力に対する反抗と捉えていただろうし、自分の政策が正しければ、いつか必ず理解されると考えていたに違いない。
 それでも最後に屈したのは、国民の力というより、保守党がこれを機にサッチャーの政治スタイルに終止符を打とうと決めたからだろう。党内の手によって、自ら人頭税は引き下げられたのである。

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