サッチャーを「鉄の女」にした究極の時代
サッチャーに「鉄の女」という別称がついたのは、首相になってからではなく、首相になる前の1976年のことである。
ソ連という国が好戦的であり、経済的にも人間性からみても敗北者だとサッチャーがスピーチで唱えたのを受けて、軍事主義を主張し「鉄の宰相」と呼ばれたドイツのビスマルクに喩えて、ソ連国防省の機関紙が彼女を「鉄の女」と呼んだのである。サッチャーはこれがたいそう気に入り、自ら「鉄の女」になることに決めた。
そもそも議員になる前、そしてなってからも、しばらくの間、サッチャーは「鉄の女」とはかけ離れた存在だった。
1959年、下院議員に初当選したサッチャーは、自宅で双子の子どもたちの傍らに座り、テレビのインタビューを受けている。この時、彼女は33歳。話す声は細く優しい。そこに映っているのは上品な家庭の妻であり、母である。
そんなサッチャーが、20年後、「鉄の女」に変貌してしまった。
1970年、サッチャーはヒース内閣の教育相に抜擢された。その翌年、彼女の政治生命が絶たれかねない最初の危機を迎える。「ミルク泥棒」事件である。
18歳未満の子どもたちへの学校での牛乳の無料配付が始まったのは、まだ食糧が配給制だった大戦直後の1946年のことだった。当時は子どもたちの貧困や栄養不良の根絶が急務だった。牛乳はタンパク質やビタミン、カルシウムなどを摂取できるという理由から、子どもたちの発育に欠かせないとみなされ、労働党のアトリー政権がその配付を議決した。
その後、ミルクは毎日、学校で飲むものだという考えが世間にすっかり定着していた。
1970年、労働党から政権交替した保守党のヒース首相は、所得税の最高税率を90%から75%にカットするという公約を掲げていた。これを実行に移すため、各省庁の事業削減が必要になった。財務省は教育相のサッチャーに対し、削減すべき事業として4つの選択肢を出した。その1つが小学校の無料ミルクの廃止だった。
サッチャーは、学校から一斉にミルクを取り上げたら国民の反感を買うのは免れないと回答した。そして妥協案として、5~7歳の子どもたちへのミルク配給は継続し、7歳以上の子どもたちからミルクを取り上げ、向こう数年間で節約できる2,000万ポンド以上を、公約に掲げた、老朽化した小学校の建物の改修に回したいと申し出た。
当時のマスコミはサッチャーに対して非情だった。1968年に労働党政府が中等教育機関でのミルク配付を廃止した時には無反応だったにも拘らず、今回の撤廃は大事件として扱った。
今ではアレルギーの子どもも増え、同じ栄養分も他の食べ物から摂取できるとして、ミルクを絶対視することに疑問を投げかける声もあるが、当時はまだそんな時代ではなかった。マスコミはサッチャーを労働者階級へのシンパシーのないブルジョア・マダムとして描き、栄養士や恵まれない子どものための慈善団体まで巻き込んで、バッシングを行ったのである。
なぜこんなことになってしまったのか。サッチャーを「非人間的」とか「イギリスで最も嫌われる女」といった見出しをつけて記事を書けば、飛ぶように売れたからである。それは彼女が女性であったから、しかもただの女性ではなく、カリスマ性のある、ひときわ目立つ存在だったからである。
1970年代まで、女性議員がイギリスの議会に占める割合は5%にも満たなかった。そこは紳士クラブ的カルチャーに支配され、女性であるサッチャーは党内でも他の男性議員たちから孤立しがちだった。
このため、野党・労働党からサッチャーは保守党のアキレス腱とみなされ、格好のターゲットとなった。労働党大会で党員の一人が「サッチャー、ミルク・スナッチャー(サッチャーはミルク泥棒)」と発言し、これが報道されるや、このスローガンが一人歩きするようになった。
事情を分かっていない親たちや「正義感」に燃える学生らが怒り、反旗を翻した。サッチャーは行く先々で抗議行動に遭い、恐ろしい形相で追いかけてくる市民を振り切らなければならなかった。学生たちは大学にレクチャーに来た彼女に、玉子やゴミ、そして石まで投げつけた。これらの体験はトラウマとなり、当時のサッチャーは疲れ果て、ちょっとしたことにすぐ動揺していたという。
労働党はヒース政権を揺さぶるため、サッチャーが議会に現れる度にやじり、彼女が発言しようとする度に「ディッチ・ザ・ビッチ(メス犬は失せろ)」という歌を歌い続けた。今では国会はテレビやインターネットで中継され、このような性差別的発言は決して許されない
が、当時はこんな明らかないじめが見過ごされていたのである。女性運動も行われるようになっていたはずなのに、サッチャーに助け舟を出そうとする女性団体は現れなかった。
事態を警告していたにも拘らず、自分が矢面に立たされたことについてサッチャーは傷つき、憤りを覚えた。彼女は自分の家族に迷惑がかかることを最も恐れた。新聞のインタビューでも「なぜ、なぜ、なぜこんなことをするの?」と悔しさを露わにしている。親たちは「学校でミルクが貰えないと、子どもがミルクを飲めなくなる」と口々に言ったが、サッチャーは「親が子どものミルク代も払えないなんて馬鹿げてる」と反論。「問題はミルクにあるのではない。皆でよってたかって私を教育相から外したいだけ」と分析した。
60~70年代に学校生活を送ったイギリス人に聞くと、その多くは学校で配られるミルクが嫌いだったと話す。いつも生温く、脂肪分が沈殿し、まずくて飲められる代物ではなかったというのだ。ミルクが廃止になった時、真っ先に喜んだのは当の子どもたちだったのではないか。
ミルク泥棒事件を乗り越えるためには、サッチャーは強くなるほかなかった。彼女はこの経験から、たとえ自分が正しいことをやっていても、様々な思惑から世間やマスコミは自分たちの騒ぎたいように騒ぎ、書きたいように書き立てるのだということを学んだ。そうした騒音を気にせず、自分の直感に従い、正しいと思うことをやり抜くしかない。この姿勢は、その後のサッチャーの政治家としてのキャリアを通して貫かれることになる。
この時までは、サッチャーには同じ保守党内に敵はいなかった。政界では絶えず女性であることや出身階級を意識させられていたため、政治における自分の取るべき立場はあくまで補佐的で、中心人物になることなど考えられなかった。
サッチャーを閣僚に選んだエドワード・ヒース首相は、威厳を振りまくことで党員の支持を得ていたが、実際に政権を握ってみると、危機管理能力が欠如していることが露わになってしまった。「Uターン」のような失態は、保守党内のエスタブリッシュメントと平議員のどちらをも失望させた。1974年の総選挙ではあっさり敗北し、労働党に政権を明け渡した。これは保守党内に大きな落胆と不満をもたらした。
サッチャーもまた、ヒースに政治を任せられないと認識するようになった一人だった。マネタリスト的経済主義を理解している者はまだ党内でも少なかったが、党員は皆、インフレを抑制するためには価格所得政策に代わる新しい方法が必要であると感じていた。
イギリスの国会議員は今も昔もディベート能力がものを言う。サッチャーは討論に長けていた。カリスマ性もあった。ただ、サッチャー自身は、前述のとおり、女性であること、エリート階級出身者ではないことから、自ら党首になりたいと最初から積極的にアピールしていたわけではなかった。
サッチャーはイギリスをなんとかしたいと感じていた。そのためにはこのままではダメだということも。
他の候補者らはなんだかんだと理由をつけて自ら党首争いのレースから外れていった。サッチャーに白羽の矢が当たった時、彼女は初めて自分がヒースと対決することを認識した。
サッチャーを自分の内閣に起用したヒースは女性を蔑視する発言や行動で知られていた。「女性が我々の討論に貢献できることは何もない」と言い放つような男だった。ディナーの席で隣に女性が座っても、彼女を無視して、さらにその女性の向こう側に座っている男性と会話を始めるのだった。それなのにこの女性が彼に背を向けると、非礼だと言って怒り出すような有り様だった。
ヒースは思いやりがなく自分の待遇ばかり主張したため、党内でも厄介者扱いされるようになっていた。1960年代後半、保守党党首だった時、事業を経営する支持者から集めた資金で個人的趣味のためにヨットを購入するような男だった。
一方、サッチャーといえば、首相官邸で購入したアイロン台の費用を自己負担すると言い張る倹約ぶりだった。
サッチャーが党首の座を奪おうとしているのを知った時、彼女に対するヒースの態度は一変した。サッチャーのやることなすことに悉く反対するようになり、それは彼女が1989年に首相を辞任するまで続いた。ヒースはサッチャーを悪人呼ばわりし、自分に内閣のポジションをくれなかったと非難した。議会でも党大会でも、サッチャーの後ろにはいつも必ず蔑むように彼女を睨んでいるブルドッグのようなヒースの顔があった。彼女は権力の座と引き換えに、針の筵に座らされた。この時から、彼女は鎧を纏い始めたのである。
サッチャーは論争好きで、相手の議論に少しでも曖昧な点があると、それをとことん追及した。当時の彼女に対する強い風当たりが、逆にそこまでさせたのかもしれない。「はっきりした哲学と明確なメッセージがなければ、党に存在することはできない」。それがサッチャーの信念だった。
サッチャーは自分の政策に否定的な党員を「ウェッツ(Wets)」と呼んで牽制した。「ウェッツ」とは元々、パブリック・スクールで「弱虫」の意味で使われた隠語である。サッチャーにウェッツ呼ばわりされた党員は、逆にサッチャーの取り巻きのことを「ドライ(Dry)」と呼び返すようになった。
相手を弱い者と呼ぶ限り、サッチャーは強い立場でいなければならなかった。相手に恐れられるような風格を備えていなければならなかった。
周囲のアドバイスもあって、サッチャーはそれまでのように流行のファッションを取り入れた華やかな服装を着るのをやめ、モノトーンのコンサバなスーツに統一した。また、国立劇場の専門家を雇い、大声を出した時に金切り声にならないよう、細く高い声をやめ、低い声で話すヴォイス・トレーニングを受けた。「鉄の女」のスタイルは、こうして完成されていった。
サッチャーが鉄の鎧を着けなければならなかった事情は他にもある。IRA(アイルランド共和軍)のテロもその1つだ。
サッチャーは首相になったその時から、常に死と隣り合わせだった。
IRAテロの目的は、南北アイルランドを統合し、イギリスから完全に独立させることをサッチャーに認めさせることだった。
1979年、サッチャー内閣の北アイルランド担当大臣であり、彼女の親友の一人でもあったアイリー・ニーブが、国会のすぐ近くで爆殺された。同年、エジンバラ公の叔父にあたるマウントバッテン卿が、アイルランドの別荘の近くでセーリングしていたところを暗殺された。同じ日には、女王のパラシュート隊の16名が北アイルランドで殺害された。1990年には、サッチャーの重要な取り巻きのひとりだったイアン・ガウが、自宅で車ごと爆破されて亡くなっている。
1980~81年には、刑務所に収容されていたIRAメンバーの囚人が、自分たちを戦争捕虜として扱うようハンガーストライキを行い、10名が餓死するに至った。これは国際メディアの注目を集め、同情を集めたが、サッチャーは彼らの主張を退け、「政治的犯罪などない。他人に重傷を負わせたら、それは犯罪である。犯罪はあくまでも犯罪」との立場を崩さなかった。
サッチャーのフォークランド戦争での勝利は、IRAの彼女に対する憎悪をさらに募らせた。彼らはハンガーストライキの報復のため、1984年、保守党大会が開かれたブライトンでサッチャーが宿泊していたホテルを爆破し、彼女を殺そうとした。サッチャーと夫のデニスは無事だったが、彼女の同僚5人が命を落とした。事件後、IRAは「今回は運が悪かった。でも、宝くじは一度当てればいい。お前がいつもラッキーとは限らないぜ」という声明を発表した。
当のサッチャーは事件の翌日、動揺した様子を見せることもなく、定例通り党大会を開会した。このサッチャーの姿勢を見た者はその揺るぎなさに感心した。彼女の支持率は再び上昇したのである。