サッチャーを切り捨てたエスタブリッシュメント
既に述べたとおり、サッチャーは保守党内で自分が常に部外者だと感じていた。性別だけでなく、出身や行動様式においても党のカルチャーからはみ出していた。この疎外感は彼女が首相になってからも続いた。
保守党とは伝統的に、同じ学校(パブリック・スクール)、大学(オックスフォードかケンブリッジ)、そして軍隊などの出身者たちの会員制クラブのような集団であり、本来それ以外のグループや階級、ましてや女性は入ることのできない世界だった。
1960年代まで保守党の党首は党員による選挙で決まるのではなく、指名を受けていた。63年、同党議員のイアン・マクレオドは、週刊誌『ザ・スペクテイター』に、パブリック・スクールのイートン校出身の10名にも満たない議員たちが、実質、党を支配していて、彼らだけが党首を選ぶ特権があることを暴露した。マクレオドはこの特権を持つエスタブリッシュメントの党内グループを「マジック・サークル」と呼んだ。
この告発を受け、1965年から党内選挙が行われることになった。選挙で選ばれたのはエドワード・ヒースだった。彼の横柄な態度が頼もしく映ったのかもしれないが、ヒースはエスタブリッシュメントたちの期待に応えられなかった。
エスタブリッシュメントたちは議会で首相を左右する法的権限はないが、影の影響力を持っていた。彼らにダメ出しされることは前途を断たれるに等しい効果があった。イギリスが不文憲法によって成り立っているのも、こうしたエスタブリッシュメントの判断や力による部分が大きい。
サッチャーはヒースの対抗馬として浮上したが、エスタブリッシュメントにとってみれば、彼らが好む要素を一切持ち合わせていない宇宙人のような存在だった。下層中流階級出身。大学で化学を専攻し(サッチャーはイギリス初の理科系出身の首相である)、自己主張が強く、極端に社会主義を嫌い、そして女性である。エスタブリッシュメントからみれば、サッチャーが行おうとした改革は「農民の叛乱」以外の何物でもなかった。エスタブリッシュメントたちは彼女を正面から批判することはなかったが、彼女がじきに消えてくれればいいと望んでいたし、そもそも長続きしないだろうと踏んでいた。
そのサッチャーが、戦後、最も在任期間の長い首相となった。
保守党の一部のメンバーは反ユダヤ主義だったともいわれるが、サッチャーはナイジェル・ローソン、キース・ジョセフ、マイケル・ハワード、マルコム・リフキンド、レオン・ブリッタンといったユダヤ人議員をブレーンとして積極的に起用した。これも前例にない画期的なことだった。彼らの仕事への献身や能力といった個人的資質を買ってのことだったのだろう。几帳面で有言実行のサッチャーと馬が合ったのかもしれない。なかでもキース・ジョセフは、組合や国営企業の問題についてサッチャーとの見解が一致しただけでなく、サッチャリズムの礎を築く牽引役となった。
そんなサッチャー政権はある日突然、終わりを告げた。それは砂の城のように彼女の足下から崩れ去ったのである。
労働党や左翼系の反サッチャー派は、彼女の辞任の原因が1989年に始めた人頭税だというが、その引き金は寧ろ欧州連合(EU)である。
イギリスは1973年、ヒース政権の時にEUに参加した。サッチャーも当初、これには積極的だったが、EUのシステムが具体的になるにつれ、主権国家であるはずのイギリスが、別の権威に従属しなくてはならないという現実が見えてくるようになった。EUに入っている以上、当然のことながら、そこで取り決められる規制に従わなくてはならない。サッチャーはイギリスがブリュッセルの官僚に支配されていくような気がして、強い危機感を覚えるようになった。当時、欧州委員会委員長のジャック・ドロールが社会主義者であったことも、彼女にとっては心地悪かったのである。
ジェフリー・ハウは、サッチャー内閣の財務大臣、外務大臣を務め、最後は彼女の副首相だった。敵を作らない温厚な性格で、11年半、サッチャー政権を支えてきたコア・メンバーの一人だったと同時にEUの信奉者でもあった。
一見、冴えない風貌で、イギリス上流階級特有の回りくどい喋り方をするハウは、サッチャーに冷たくあしらわれがちだった。
そんな長年の屈辱も溜まりに溜まったのか、ハウは彼らしからぬ思わぬ行動に打って出た。下院議会でサッチャーや他の議員らを前に、突然、閣僚を辞任することを発表したのだ。それだけなく、この辞任スピーチでクリケット・チームに喩え、「ボールが投げられた時には、既にキャプテンによって自分のバットがへし折られていたのです」と彼女を非難したのである。
サッチャーが首相に就任した時、イギリスも加盟国として貢献していたEUの予算の70%は欧州の農業政策に使われていた。サッチャーは当時、加盟国の中でも最貧国の1つだったイギリスが農業大国ではないという理由から、「私たちが払ったお金を返してもらいたい」(I want my money backと言ったと引用される)と主張したという。
その剣幕を見たフランスの大統領フランソワ・ミッテランは、サッチャーが「マリリン・モンローの唇にカリギュラの目」を持っていると表現した。
サッチャーとEUとの闘いは4年間続いた。1984年、彼女はリベートを勝ち取ったが、ハウを含め周囲の人間を困惑させ、EU諸国との信頼関係に傷をつけたといわれている。
サッチャーにはハウの発表に関する何の予告もなかった。彼女の顔に泥を塗るのが目的だったと思われても仕方ない。長年連れ添った夫婦の片割れが、いきなり公衆の面前でふたりの関係を暴露したようなものである。もしも日本の閣僚が辞任を表明し、首相への愚痴を国会で演説し始めたらどうだろう。一大スキャンダルになるだろうし、首相にとってこれほど恐ろしいことはない。それはサッチャーにとっても同じで、後ろから刺されたような手痛い裏切りだった。
3期目の任期も勝ち進んだサッチャーは「まだまだやりたいことがある」と言って4期目もやる気満々だった。これはエスタブリッシュメントたちにとってみれば堪ったものではなかった。ハウの辞任スピーチを聴きながらほっと胸を撫で下ろしていたのは、野党議員たちというより、寧ろこのエスタブリッシュメントたちだっただろう。そして、ここからサッチャーを引きずり下ろすシナリオが、一気に出来上がっていったのである。
ハウの発表の翌日、彼とともにEUとの関係強化を支持していたマイケル・ヘイゼルタインが党首選に出ると表明した。サッチャーは辛うじてヘイゼルタインに勝ったが、党が規定する15%以上の差を獲得できず、再度、投票が行われることになった。サッチャーはエスタブリッシュメントらと個別に面談を行ったが、彼らは一様に「応援するけど、君は勝てないよ」と言ったという。
嘗てサッチャーの政務秘書官を務め、党内の調整に奔走したイアン・ガウは、その前年、IRAテロによって消されていた。彼が生きていたら情勢は違ったかもしれないといわれる。
非常事態の状況では、ウィンストン・チャーチルやサッチャーのように強い信念を持った首相が望まれる。だが、用心深く、コンセンサスを大切にするエスタブリッシュメントと衝突すれば、その地位に居続けることはできない。2期目の任期を終えた時、既に妻に引退を促していた夫のデニスも、もう辞めたほうがいいと背中を押した。彼女は辞任を決めた。全てがあっという間の出来事だった。
サッチャーの次に党首に選ばれたのは、誰ともトラブルを起こしそうにない、どこから見ても温厚そうなジョン・メージャーだった。エスタブリッシュメントたちは、この一種のクーデターによってサッチャーを切り捨て、コンセンサスに基づく本来の自分たちの政党を取り返したのである。
その後、1997年にウィリアム・ヘイグが保守党党首になり、労働党のトニー・ブレアが首相に就任した時、どちらもサッチャーからお墨付きを得ようとしたという。彼女も最後にはエスタブリッシュメントの仲
間入りを果たしたことは間違いなさそうである。
2013年春、サッチャーの葬儀代として120万ポンドが使われることに反サッチャー派の民衆から反対の声が上がった時、外務大臣のウィリアム・ヘイグは、彼女が獲得した払戻金によって、我々は葬儀代を払う余裕があると反論した。当時の官僚の顔に泥を塗りながらも、彼女の交渉によってイギリスは750億ポンドを回収することができたのである。これはイギリスの防衛費のおよそ2年分に相当する。
この行動力において、その後、サッチャーを超える首相はイギリスから出ていない。しかも生前、自身の葬儀について相談を受けた時、サッチャーは、国葬はして欲しくないし、式典の儀礼飛行などは無駄遣いだと話し、倹約家であることを見せつけていたという。