第4章  サッチャーを巡るヒステリア    サッチャーがコミュニティを潰した理由


 サッチャーを巡っては支持派と反対派が真っ向から対立している。お陰でサッチャーは国を分断したといわれている。それぞれの代表的な大まかに分類できるとすれば、サッチャー支持派は主にロンドンや南イングランドに暮らす経済的に豊かな中流階級であり、反対派はスコットランド、南ウェールズ、マンチェスター、南ヨークシャーに住んでいる労働者階級ということになるらしい。
 これら反対派の人々が暮らす地域は、元々、炭坑や製造業で発展した場所である。彼らはサッチャーがイギリス労働者階級の伝統的コミュニティを崩壊させた張本人であるとして、彼女を糾弾する。
 しかし、炭坑の閉鎖についていえば、それはサッチャーが政権を取るずっと前から始まっていた。
 イギリスの炭坑の黄金時代は第一次大戦前のことである。国内には3,000カ所の炭坑があり、100万人の炭坑夫が働き、毎年3億トンの石炭を産出していた。1947年に炭坑は国有化されたが、その数は最盛期の3分の1に減り、生産量は年間2億トンになっていた。1950年には政府は5億ポンド以上をつぎ込んで生産量を上げようとしたが、目標は達成できなかった。
 このため60年代にかけて政府は生産性の上がらない600カ所以上の炭坑を閉鎖した。1964年からの労働党のウィルソン政権下では、毎週どこかの炭坑が閉山し、1970年までには全国に残っている炭坑は300カ所になった。イギリス国内のエネルギー消費量に占める石炭の比率は50%になり、74年にはさらにその3分の1になっていた。年間13億ポンドもの国民の税金が投資されていたにも拘らず、それら炭坑の75%は赤字だった。
 サッチャーが首相になった頃、炭坑業界は既に風前の灯だった。彼女の10年間の政権時代に閉鎖された炭坑は140カ所ほどで、労働党のウィルソン首相が閉山した数のほうが実は多かったのである。
 それでもなお、サッチャーが炭坑や製造業とともに彼らのコミュニティを潰したという認識が確立されてしまったのは、それが崩壊プロセスの最終局面だったからであり、サッチャーの時代に社会が激変したため、変化についていけない人たちがその不満をぶつけやすかったためだろう。
 これらのコミュニティは炭坑や特定の製造業があったからこそ成り立ち、それ以外の産業はなかった。大都市から遥か遠く離れた侘しい場所にあり、隔離されていた。こうした町の労働者は、代々同じ炭坑や工場で働き、それ以外の世界は知らなかった。収入は決して多くなかったが、転職しようにも。技能も教育もない彼らには至難の業だった。多くの労働者は素朴且つ真面目で、自分たちの仕事を誇りに思っていた。彼らはどちらかというと保守的で、政治に口出しするようなタイプでもなかった。しかし、組合の指導者の煽動とコミュニティへの忠誠心の高さが、いつしか彼らを闘争者に変えていったのである。
 1981年に全国炭坑組合の委員長に就任したアーサー・スカーギルは、74年にヒース政権を崩壊させたきっかけとなった炭坑ストライキを組織した主要人物の一人である。ヨークシャー生まれの彼は、父親も炭坑夫で、自らも中学卒業後、20年近く炭坑で働いた経験を持ち、筋金入りのミリタントだった。
 ミリタントとは、マルクス主義とソビエト共産党のトロツキーに影響を受けた過激派グループを指す。彼らの究極のゴールは、労働運動を通して社会主義国家を成立させることだった。ミリタントは60年代後半から労働組合を仕切るようになり、その方針や活動に大きな影響を与えた。組合のストが大規模且つ戦闘的になったのも、彼らが組合員を煽っていたからである。
 労働組合をコントロールすることは、インフレの抑制と並んでサッチャーの最優先課題だった。ただ、組合の怖さもよく知っていた彼女は、いきなり正面から対決することを避けた。首相就任後、炭坑組合が5%の賃上げを要求してきた時もすんなり承諾した。
 その一方で、ストに踏み切るかどうかを無記名投票によって決定することや、セカンダリー・ピケの禁止といった労働組合に関するルールの改正を行い、労働争議が起こっても容易に飛び火・拡大しないような環境を拵えた。もしも炭坑がストを起こしても、燃料や電気の供給が途絶えることがないよう石炭を備蓄し、万全の体制を整えた。
 炭坑組合の運命を賭けた闘争は、1984年に起こった。
 その前年、サッチャーは炭坑庁の総裁にイアン・マクレガーを任命していた。英国製鉄会社の会長だった彼は、16万人いた従業員を半分に減らし、18億ポンドの赤字を2億ポンドまで削減することに成功した人物で、その手腕が買われたのだ。
 1984年には170カ所の炭坑があり、19万人が働いていた。マクレガーはまず手始めに生産目標を達成できなかった20カ所の炭坑を閉山し、それに伴って2万人を解雇するという方針を示した。
 これに対し、スカーギルは、資本主義に対して一切妥協せず、労働者の仕事をあくまで守り抜くとの立場に立ち、全国の炭坑にストを呼びかけた。
 70年代だったら、このやり方は通用したかもしれない。だが、サッチャー政権になって5年が経ち、以前とは様子が違うことをスカーギルは認識していなかった。
 生産性基準をクリアし、うまくいっていたノッティンガムシャーの炭坑はストへの参加を拒絶した。スカーギルはかつてのように電力会社の組合が加担してくれると思っていたが、これも期待はずれに終わった。トラックの運転手たちの多くはサッチャー政権になってから独立し、自営業者となっていたが、ストに協力するどころか逆にピケを破り、必要な場所で石炭を運ぶのに一役買った。世論でも、ストを起こしている労働者より、経営者へのシンパシーが上回った。
 スカーギルはストを決議するための投票を事前に行っておらず、この労働争議は違法とみなされた。このため、ストが開始してからほぼ一年間、組合員に生活費が支払われなかった。暖房費も払えない、長く、貧しく、心細い冬を過ごした後、彼らもさすがに音を上げ、職場に復帰した。
 炭坑組合の敗北は、イギリスで組合が支配する時代が終わったことを象徴するものだった。
 サッチャーの目的はコミュニティを潰すことでも、切り捨てることにあったのでもない。彼女の考えは、失業者を出さないために政府が赤字必須で仕事を作って労働者に与えるべきではないというものだった。サッチャーが言った通り「社会主義の問題はお金がかかりすぎること」であり、既に一度破産したイギリスではそれは考えられないことだった。サッチャーが理想としたのは、国民一人一人が実質的価値を生む仕事をして収入を得ること。たとえそれが崩壊しても、そこで個人が自分で運命を切り開き、新しい人生を見つけ出してくれること。そこから新たな産業が自然に生まれてくることだった。しかしながら、世界の流れから疎外され、立ち後れていたコミュニティに、そのような意識改革を期待することは難しかったようである。

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