たかがフォークランド、されどフォークランド


 首相就任後のサッチャーの最初の目標の1つは、止まらないインフレにブレーキをかけることだった。
 サッチャー政権はマネタリズムの法則に従い、金利を14%から17%に引き上げた。国民のモチベーションを刺激するために所得税率を下げる代わりに、間接税によって税収を確保しようと、消費税を8%から15%に引き上げた。これにより景気は一気に冷え込んだ。それまで既に100万人だった失業者数は、製造業を中心に200万人へと膨れ上がった。
 この事態を受け、それ見たことかと、1981年、価格所得政策を支持してきた経済学者364名が、サッチャーのマネタリスト的アプローチが不況を招いたと非難する公開状をタイムズ紙に掲載した。
 サッチャー首相は窮地に立たされた。首相に選ばれたものの、保守党内の重鎮やエスタブリッシュメントから完全に認められていたわけではなかった。しかも国民の支持率は下がる一方で、いつ取り替えられてもおかしくない。彼女自身、胸の内ではもうダメかもしれないと感じていた。
 そんなサッチャーを2つの状況が救った。1つは、対立政党の労働党党首マイケル・フットに人気がなかったこと。そして1982年に勃発したフォークランド戦争である。
 サッチャーは最初からフォークランド戦争の勝利を確信していたわけではなかった。
 フォークランド諸島はイギリスにとって植民地主義時代の遺産である。南米アルゼンチンの南東480キロに位置し、イギリスからは1万1,265キロメートルも離れている。原住民はおらず、荒涼とした土地が広がるだけ。16世紀から、フランス、スペイン、そしてイギリスが、島の領有権を争ってきた。1816年、スペインから独立宣言をして間もないアルゼンチンが島に総督を派遣するも、1833年、イギリスが島を奪還する。以来、イギリス人が入植し、永住する。
 入植から150年が経った1982年には、島には1,800人強のイギリス人住民が暮らしていた。島ではイギリスポンドと等価のフォークランド諸島ポンドが通貨として使われ、エリザベス女王を君主とし、外交と軍事以外の行政は自治政府が行ってきた。イギリスはコモン・ロー(不文法)の国であり、伝統や慣習、判例に従って、判断や決断を下す。ある一定の条件で時間を経ても大きな問題がないまま事態が進行し、既成事実が出来上がっている場合、それを良しとして正式に承認する。この考え方からいえば、アルゼンチンが不服としている以外はうまくいっているのだから、島は既にイギリスのものだという理屈になる。
 フォークランド戦争が起こるまでは、フォークランドの住民は生活物資や医療も至近距離にあるアルゼンチンに依存してきた。アルゼンチン側は領有権を主張し続け、国連の仲立ちによって話し合いが続けられてきたが、両国どちらも譲らず、解決には至っていなかった。
 サッチャーが政権に着いた時、政府の間でもフォークランド領有に対する意欲が失われかけていた。財政緊縮を進めようという時にコスト(軍事費)がかかるばかりの領土を維持することにどれほどの価値があるのか。いっそ島の領有権はアルゼンチンに譲り渡し、イギリスは島民の自治を管理・運営すればいいのでないかという妥協案さえ出ていた。
 当時、サッチャーはジンバブエ(旧ローデシア)独立への対応が急務で、フォークランドのことをじっくり考える余裕がなく、確信が持てないという理由から、話し合いを先延ばしにしていた。ただ、イギリス海軍の南氷洋巡視船『エンデュランス』はもう必要ないと判断し、81年に撤退させることを決めた。
 ところが、その翌年、5,000人のアルゼンチン兵が島に上陸して総督府を包囲し、島の奪還を宣言したのである。
 サッチャーはこの一報を聞いた時、体にナイフを突きつけられたような衝撃を受けたという。「人生であれほど怖い思いをしたことはなかった」。政治家として崖っぷちに立たされていた上に、このフォークランドの非常事態である。
 ここで、サッチャーはアルゼンチン側の行動を誰よりも深刻に受け止めた。彼女はアルゼンチン兵が撤退しない限り、交渉には応じないという強硬姿勢を取った。
 閣僚の間では意見が分かれた。保険医療省の副大臣だったケネス・クラークは「まさか誰もアルゼンチン相手に戦争したいと思っていないことを信じたい。相手の船を数隻、爆破したら、後は話し合いによって解決すべきだ」とサッチャーに進言した。国防省の副大臣だったフィリップ・グッドハートも、「サッチャーが男だったら、戦場に行った経験があったら、そこまでしなかっただろう。ひどい結末になるかもしれなかったのだから」と述懐している。サッチャーの盟友だったアメリカのレーガン大統領さえ、彼女に「アルゼンチンとの友好的な領土活用を」と言った。冷戦下の当時は、アルゼンチンがソ連に救いの手を求めることも考えられた。事態が複雑になる前に事を丸く収めてほしい、と考えたのだろう。
 そんなレーガンに対し、サッチャーは「もしもアラスカが侵略されたら、あなたは私と同じことをするのではないか」と返した。サッチャーの大義名分は、「フォークランドの人々は、イギリス人として生活し、君主である女王に忠誠を誓っている。彼らにはイギリス人としての生活が守られる権利がある。我々は何としてもその権利を守るために全力を尽くすべきである」というものだった。
 しかも相手は1976年来の軍事政権で、3万人のアルゼンチン市民を拷問、虐殺した元陸軍司令官のガルチェリ大統領である。人を殺すことなど厭わない。フォークランド侵略も、ブエノスアイレスで起こった反政府デモがきっかけだった。アルゼンチンがフォークランドの領有権を主張してきたのは、国内の政治・経済がうまくいっていないためであり、国民の不満のはけ口として利用されたのだ。そのような国と友好的関係を築けるわけもない。
 それまでイギリスからも殆ど見捨てられ、多くのイギリス人も無関係・無関心だった遠く離れた南半球の小島が、にわか世界じゅうの脚光を浴びるようになった。
 サッチャーの演説は同胞意識を駆り立てた。国民の70%が彼女を支持したといわれる。その先、どうなるのか、サッチャー自身にも全く分からなかった。戦争の意味を問う暇もないうちに全てが始まっていた。もはや引き返すことはできなかった。
 イギリス政府はフォークランドに1万人を超える陸軍兵、1万3,000人の海軍兵、3,000人の空軍兵を送り込んだ。
 アルゼンチン側はまさかサッチャーがそこまでやるとは思っていなかったため、慌てて数千人の兵士をかき集めた。傭兵の多くは20歳にも満たない若者で、島の住民であるアルゼンチン人を守るために戦うのだと聞かされていた。
 ところが、島に着いてみると、どこもかしこも英語の標示だらけ。アルゼンチン人など住んでいない。満足な食糧の配給さえなかった。兵士たちの士気は一気に下がり、彼らの多くは殆ど抵抗せず、すぐに武器を手放したという。
 イギリスの駆逐艦などが爆破される度、サッチャーは亡くなった兵士を思い、涙を流したという。両国の死傷者は3,000人に上った。74日間の戦闘の後、アルゼンチン軍は降伏し、ガリチェリ大統領は失脚した。
 一方、サッチャー首相の保守党は1983年の選挙で、労働党の209議席に対し、397議席を獲得し、圧勝した。サッチャーの人生最大の危機は、彼女を国の英雄に変えた。
 1980年に18%だったインフレーションも、84年には5%に下がっていた。インフレ抑制という目標も達成したサッチャーにとって、これ以後、リスクを取ることは彼女の政治スタイルとして定着した。
 いま当時を振り返って、フォークランド戦争は馬鹿げている、という人たちがいる。社会派映画監督のケン・ローチもその一人だ。
 しかし、もしもローチが首相だったら一体どうしただろう。正義など視野にないアルゼンチンの独裁者を前にして、それでもフォークランドを見捨てたのだろうか。フォークランドの人たちはどうなっただろうか。
 サッチャーはこれらの問いにノーと答えた。戦々恐々の時代のなかで、彼女は自ら「鉄の女」にならざるをえなかったのである。

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