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(長編小説)止まった時計を動かして ~変わりたい僕の365日~【第1章:止まった時計の針】
春の空気が微かに冷たく、校庭の隅に植えられた桜の蕾がほんのりと膨らんでいる。近所の小学校では卒業式の準備が進められ、児童たちの元気な声が通りに響いていた。そんな景色を横目に、立林祐介は重い足取りで会社に向かう電車に乗り込む。
祐介の生活は、まるで止まった時計のようだった。朝起きて、仕事に行き、帰宅して眠る。ただ淡々と同じ日々を繰り返すだけ。唯一違うのは、失敗の内容くらいだ。
通勤電車はいつものようにぎゅうぎゅう詰めだ。祐介は奥のほうに体を押し込むと、スマホでニュースアプリを開いた。しかし、内容が頭に入ってこない。ふと窓に映る自分の顔に目を向けた。そこには疲れ切った表情の男がいた。
「またかよ……」祐介は思わず小さくつぶやいた。昨日、進行中のプロジェクトで資料を取り違え、クライアントから厳しい叱責を受けた。上司の上野部長にも強く注意され、帰り道は土手道でひたすら独り言を呟いていた記憶がある。
会社に着くと、祐介は自分のデスクに向かった。すぐ近くで川村美咲が資料をまとめているのが目に入る。彼女の落ち着いた笑顔はいつもと変わらず、周囲に安心感を与える存在だった。祐介はその姿に一瞬目を奪われたが、同時に胸が重くなるのを感じた。
(あの笑顔に救われるけど……結局、彼女には届かないんだよな。)
祐介は仕事に集中しようとパソコンの画面を見つめた。が、その矢先、同期の高田悠斗が近づいてきた。
「祐介、大丈夫か? 昨日のこと、気にすんなよ。」
高田は相変わらず明るい声で励ましてくれる。その笑顔は表面上のものではなく、祐介を本気で心配しているのが伝わった。
「ありがとう、悠斗。でも、自分が悪いんだよ。」
「そんなことないさ。誰だってミスくらいするだろ。」
高田の言葉は慰めではあったが、祐介の心に響くほどの力はなかった。彼は深くため息をつき、机の上の書類に目を落とした。
そして、昼休みになると、後輩の山本知佳が祐介のところへ駆け寄ってきた。
「立林さん、今日ランチ一緒に行きませんか?」
彼女の屈託のない笑顔は、彼を少しだけ癒してくれる。しかし、それ以上に自分が彼女の期待に応えられないのではないかという不安が勝る。
「あ、いや、今日はちょっと用事があって……。」
祐介は軽く手を挙げて断った。知佳は一瞬困ったような顔をしたが、「じゃあまた今度誘いますね!」と明るく返して去っていった。その後ろ姿を見送りながら、祐介は自分が何をしているのか、わからなくなった。
(こんな自分でいいのか……?)
午後の仕事が始まる前、祐介はトイレの鏡に映る自分を見つめた。空手で栄光をつかんだあの頃の自分とは程遠い姿がそこにあった。あの時は、目標に向かって努力する喜びがあった。でも今は何をしても空回りだ。
「もういい加減、変わらなきゃな。」
祐介はそう呟いたが、行動に移す気力はまだ湧いてこなかった。
夕方になり、仕事を終えた祐介はいつものように帰路についた。会社を出て、車通りの多い国道沿いを歩いている間は、街の喧騒に紛れて自分の思考を押し殺すことができる。しかし、河原沿いの土手道に入ると、まるで自分の内面が引きずり出されるような感覚になる。
この道は祐介にとって特別な場所だった。街灯がなく、川向かいのマンションの明かりだけが足元をほんのり照らしている。人通りもほとんどない静寂の中で、祐介は心の中に抱えたものを吐き出すように独り言を言う癖があった。
「なんで俺は、こんなにうまくいかないんだろう……。」
祐介はふと立ち止まり、空を見上げた。春の夜空はまだ冷たく、星が少しだけ瞬いている。その寒さが、彼の胸にある重苦しさをさらに強調するようだった。
大学時代、空手で得たメダルの輝きが頭をよぎる。あの頃の祐介は、何をしても前向きで、結果がついてきた。それが今では、周囲の期待に応えられない自分に苛立つばかりだ。
「俺、何やってんだろうな……。」
つぶやいたその声は、川からの冷たい風にかき消される。
そんな独り言の時間も、土手道を抜けると終わる。マンションの入口に差し掛かり、鍵を取り出すと、部屋の中はいつもと変わらない静けさに包まれていた。
ワンルームの部屋はシンプルで、物が少ない。机の隅には学生時代に得た空手のメダルが飾られている。それを見ると、胸の中にある小さな痛みが再び湧き上がる。
「どうしてあの頃のように頑張れないんだろうな。」
祐介はメダルを手に取り、裏側に刻まれた文字を指でなぞった。それは彼にとっての過去の栄光であり、同時に、いまの自分とのギャップを思い知らされる存在でもあった。
ベッドに腰を下ろし、スーツのネクタイを緩めると、スマホの画面をぼんやり眺める。画面にはSNSで友人たちが楽しそうに過ごしている投稿が流れていた。結婚した者、新しい仕事を見つけた者、充実した日々を送っている者――みんなが自分を置いて先に進んでいるような気がしてならない。
「変わりたい……。」
祐介は小さくそう呟いた。
だが、その言葉には力がなかった。明日もきっと同じ日々が待っている。止まった時計の針を動かす方法が見つからないまま、祐介は布団に潜り込んだ。
枕元の目覚まし時計が午前0時を指してカチリと音を立てた時、祐介は思わず目を開けた。そして、決意というには弱いが、何かが胸の奥に灯るのを感じた。
「このままじゃダメだ……。」
それは、小さな一歩を踏み出すための最初の気持ちだった。