(短編小説)昼のひととき
彼は毎日、彼は12時5分ぴったりにやってくる。ビシッとスーツを着た姿でいつも同じテーブルに座り、注文も決まっている。「日替わりランチ、お願いします。」彼の声は低く、短いが丁寧だ。私、アルバイト店員のさやかは、毎回それを受け取るのだが、彼の存在がどこか気になって仕方がない。
料理を出しても、彼は黙々と食べる。周りに目を向けることはなく、スマホも見ない。目の前の料理にだけ集中して、時間を無駄にしないよう急いで箸を進める。それでも、「いただきます!」と言うときだけは誰よりも大きな声を出す。その声が、店内のざわめきを一瞬止めることがあるほどだ。私はその度に、彼の方へ振り返ってしまう。
食べ終わると、彼はまた大きな声で「ごちそうさま!」と言う。少し照れくさそうに見えるが、その瞬間、顔には充実感が浮かぶ。まるで、昼のひとときだけが彼にとっての自由時間であり、全力で楽しもうとしているように見える。そして、「ごちそうさま」の言葉が終わるや否や、彼は急いで席を立ち、慌てた様子で会計を済ませ、店を飛び出していく。
一体、何をそんなに急いでいるのだろう。彼が店を出るたび、私はそんな疑問を胸に抱えたまま、次の客の注文を取る日々が続いた。
そんなある日、少しだけ勇気を出して、彼がいつも座るテーブルの近くに料理を運ぶついでに話しかけてみた。
「いつも急いで食べられてますけど、どこか行かれるんですか?」
私の問いに、彼は少し驚いたように顔を上げた。そして、ほんの少し困ったような笑顔を浮かべて答えた。
「ええ、昼休みが短くて。今日も午後の会議までに準備をしないといけないんです。でも、この店のごはんは美味しくて、つい通ってしまいます。」
「そうなんですね。それでも、毎回『いただきます』と『ごちそうさま』をしっかり言ってくださるの、すごいなって思ってました。」
彼は少し照れくさそうに笑った。「そうですか?昔からの習慣で、ちゃんと言わないと落ち着かなくて。」
その言葉に、私は心が温かくなった。彼は忙しさの中でも、食事に感謝を忘れない人なのだ。その日、彼が「ごちそうさま」と言って店を出て行く姿を、私は少し違った気持ちで見送った。
次の日からも、彼は変わらず12時5分に現れ、同じ席に座り、同じように急いで食べる。そして、少しだけ会話を交わす時間が増えた。たわいもないことだが、それが私にとっては特別だった。昼休み限定の、ほんの少しの交流。でも、その時間が一日の楽しみになりつつあるのを感じていた。
そして、彼の「ごちそうさま!」を聞くたび、私も自然と笑顔になった。彼が店を去った後の静けさが、少しだけ寂しく感じられるようになったのは、いつからだろう。
彼にとっても、この店での昼休みが少しでも特別なものになっているならいいな、と思いながら、今日も彼が来る12時5分を心待ちにしている。