見出し画像

泣けなかった理由。

先日亡くなり、葬儀を終えた僕の叔父の事とか
少し落ち着いてきて、冷静になれたこともあり
改めていま 思うことがあるので、
少しだけ……書き綴りたいと思います。
見苦しい部分もあるかとは思いますが。。

僕の叔父の最期は、本当の身内だけで家族に看取られながら、病室で生涯を終えたことだけが 叔父の人生のなかでの 唯一の" 救い "であったように思います。
孤独死ではなかったことだけが。

叔父は享年 60代を過ぎていました。
叔父の生活といえば、生活保護で重度の精神障害の手帳持ち。
晩年は、地元の最低家賃の町営住宅に、同年代の友人と一緒に細々と身を寄せ合って暮らしていました。

叔父は、若いときは地元のガスの配送会社に勤務していましたが、中年に差し掛かった頃に長年勤めていたその会社を辞め、" 引きこもり "になり、徐々に" 精神疾患 "を煩ってしまいました。

病気は、統合失調症と重度の鬱病でした。

叔父は生涯独身で、はじめは祖父母の家で同居して生活していましたが、その古びた家もいよいよ老朽化し、土地も知り合いに借りていたものだったので、残念ながら取り壊しとなってしまいました。

そこから祖父と叔父とで二人、町営住宅に移り住んで、最初の頃は慎ましく暮らしていたのですが……

ある時期を境に、祖父が痴ほう症を煩ってしまい、その時に引きこもりのような生活をしていた叔父では「祖父の介護は不可能だ。」と言う事で、三兄弟の長兄であるうちの父と母の夫婦が祖父を引き取り、面倒を見るために自宅で同居するに至った。という流れです。(※ 亡くなった叔父は三男。)

( 今回は叔父の話しなので、祖父の痴ほう症の大変なエピソードの諸々は割愛させて頂きます。)

単なる引きこもりの頃は、買い物の為に外に出たり、自分のワゴン車を運転して知り合いの家を訪ねたりと、単純な用事しかやらない生活ではあったとは思いますが、それなりに動けていた様子だったと記憶しています。

ですが、あの頃は無駄に行動力があるぶん、情緒不安定だった叔父さんは、身内や親戚に無断で" 失踪 "を繰り返し……
その都度、両親や親戚が捜索願いを出しに警察に赴いたり、逆に警察に連れられて自宅に帰還したことも、数え切れないくらいあったのでした……。

身内の間で語られていたエピソードでは
あてもなく車を運転し、福島の片田舎から、なんの縁もゆかりもない長野県へと短期間、失踪していた話しが記憶に残っています。

父曰く、「祖父が生きていた頃に、一緒に旅行をした思い出の場所へ、実は行きたかったのではないか?。」ということでした

相変わらず狼少年(中年)のような叔父の自暴自棄な振る舞いや行動に対して、うちの両親も親戚たちもさすがに辟易し、問題が起こるたびにそれぞれ文句や悪態をついていましたが、あれは確かに文句を言われて当然だな……と甥っ子ながら 思うところがあります
誰にも何の相談もなく、毎回勝手に失踪し、捜索願いを出され……
帰ってきては悪びれもせず……
家族も親戚たちも、その都度警察に呼び出されていた気がするので。

お金があればあるだけ、コンビニで大量に買い物をし、買ってきたジャンクフードを大量に過食してしまっていたし、ギャンブルも好きだったので、その都度 街のパチンコ屋に出入りして、大事な生活費を散財していたように記憶しています。
そして、重度のヘビースモーカーでした
残念な事に、死因も煙草の吸いすぎによる" 肺がん" だったので。。
お金がなくなると、うちの両親や、三兄弟の次男である叔父夫婦の家を訪ね、お金の無心をしたり、食べ物や飲み物を恵んで貰えないか?と毎回毎回 頼み込まれていました
しぶしぶ、お札を渡したり(→ あとでちゃんと返してくれていた)、 
分けてあげられるような食べ物をビニール袋に入れて渡すと、叔父は、ボソッと
「ありがとう」「また来るわ。」と虚ろな目でニヤリと笑うと、帰ってゆくのでした。

ちなみに、次男の叔父夫婦には結構冷たくあしらわれて嫌煙されていたみたいで、そちらにはあまり恵んで貰いには行けなかったみたいです。
「来るなと言われた。」「あいつらはケチだ。」と自嘲気味にぼやいていました。。

あの頃はただの情緒不安定な引きこもりの状態で済んでいましたが、いま思えば、あの頃がいちばんサポートとメンタルケアが必要だったのかも知れない。と当時を振り返ってみて思います。

叔父が精神疾患を患い、徐々に言動がおかしくなったり、元々荒れていた生活がさらに荒れていった あるとき。
病院の診察により、頭部の眉間(内側)のあたりに、ピンポン玉?くらいの大きめの腫瘍が出来ているのが見つかり
すぐさま大きな病院で手術をし…… 
退院してしばらくした後に、精神疾患の症状が一気に悪化していったように記憶しています。

両親曰く、あの頃に「叔父から改めてお願いがあった。」と聞いています

叔父曰く……
自分自身がおかしいのが分かる。
このままでは自分で何をしでかすかわからない。
人に危害を加えて問題を起こしてしまう前に、閉鎖病棟に、自分を入れて欲しい……
」と。

僅かに正気が残っていたであろう叔父の切実な申し出通り、すぐさま隣街にある精神病院の閉鎖病棟へと 入院させられてしまったのでした

自分はそのときは同行しなかったので、話しに聞くぐらいの情報しか分かりませんが、
立ち合った両親や親戚曰く……
「とてもじゃないが、閉鎖病棟の檻に入れられるのを見ていられない、可哀想な姿だった……」と言っていました。。

叔父の生活といえば
まるで魂の脱け殻のように無気力で
できることと言えば、食べ物を食べ、煙草をふかして、延々とずっと横たわること。。
叔父の住んでいた古い木造の町営住宅の室内は、煙草のタールの黒ずみの垢が部屋全体にべったりと広がり……
ずっと洗濯をしていなかったであろう、無造作に積み重なった洋服の、汗や汚れの染み込んだ酸っぱいきつい匂いが……
既にいつのものか分からない、食べ残しの弁当やカップ麺などが腐敗している汚臭がして…… それらが混ざり合っている。。
敷き布団が無造作に敷かれ、壊れて埃のかぶったテレビは映らず…… 
汚れた電子レンジと、最低限の料理に使うフライパンと卓上コンロしかない……
何処からどこまでが生活雑貨で、どこまでがゴミなのかが、最早分からないような状態……
とても人間が住む場所では無いような
形容しがたいものでした……。。

見かねて何度か父と二人で
叔父の住むその部屋を片っ端から掃除をして、窓を開けて風通しも良くし、綺麗にしてはみたものの……
何度掃除に赴いても、また元通りの状態になってしまっていたことで
「いい加減、もう無理だ……!!」と父が呆れながら癇癪を起こして、無気力な叔父に対して半ば一方的な喧嘩をしてしまったことで、それからは掃除に行くこともなくなってしまったのでした……
役場に相談に赴いたり、行政のサポートは可能な限り申請をして受けてはいましたが、
きっと、家族も親戚もみんな、疲弊してしまっていたのだと思います
叔父と「関わる」「支える」という事に。。


 
「この家のなかに誰かがいる……」
「誰かが囁いてくる……」と
呂律も回らず酷く虚ろな目をしながら、わけの分からない事を力なく主張していました

いま思えば。その症状は、妄想や幻聴、幻覚、統合失調症のそれに、重度の鬱症状の状態だったのだと思います。
あの頃は自分も、精神疾患についてなんの知識もなければ、自分から叔父に会いに行く気にもなれなかった……
気付いてあげられなかった……
自分に余裕もなかった……
ちゃんと支えてあげることが できなかった。。


閉鎖病棟で暫くの間入院したあと
容態が落ち着いてきたことで、退院してまた自宅へと戻って来られたのでした

家族や親戚がそんな叔父と、いい加減 距離を置きたい!と見放してしまったあと。
幸いなことに、町内にある病院に通院していた時に知り合ったであろう、同年代の男性の方と友人の間柄となったようで、二人は自然と同居をするかたちになっていたのでした。

ご友人の方は控えめで謙虚、お会いして、とても真面目で優しい方でした。
生活は相変わらず荒れているようでしたが、穏やかで心根がやさしい部分は、ふたりともとても似ていたように思います

ご友人の方も町内に自宅はあったようですが、お互いに身寄りのない独身ということもあって、遊びに来て入り浸っては 飲み食いを共に過ごしているうちに同居をしはじめたようでした

きっと、同じ気持ちを分かち合える唯一の存在だったのだと思います。

仕事を辞め、精神疾患に陥り、人生を諦め、孤独に苛まれながら生き永らえる苦しみを理解し合うことが出来る、唯一無二の存在だったのでしょう。

その方が同居してくれていたことで、動けない叔父の代わりにその友人の方が、その都度買い出しへ赴いてくれていたり、なんとか一緒に病院へと付き添いながら 通院する事が出来ていたのだと思います。

その生活は何年にも及びとても長く……
まるで自分たち以上に 本当の家族のようにも見えました
もしかしたら、自分たち家族の支えは、叔父にとってみたら それは、
心からの支えではなかった のかも知れません





ある日。

仕事から帰宅すると、黒いスーツを着た県警の方が二人、深刻な顔をしながら両親と話しをしている様子でした。

警察の方が帰っていったあと、「何があったの?」と両親に尋ねると、
「あいつ(叔父)が事件に巻き込まれたようだ。」と。
しかも、容疑者として疑いもかけられているようだ……と云うことでした

端的に説明をすると……
同居していた友人の方と、遊びに来ていた別の知り合いの方と三人で、地元からバスを乗り継ぎ、県内の海辺の観光地へと赴いていたそうです。

観光地へと到着するなり、もう日もくれて夜になっていたらしいのですが
知り合いの方が 叔父と友人の二人に対して「申し訳ないが、コンビニでお酒を買ってきてほしい。」とお願いをしたそうです。

しぶしぶ、二人は観光地から少し離れた場所のコンビニへと買い出しに行きましたが、
戻ってきてみると、その知り合いの男性の姿が見当たらなかったそうです。

真っ暗闇のなか、ひとしきり探したあと
残された二人は近くの交番へと赴き、警官の方へと事情を説明した。ということでした

すぐさま地元の警察によって捜索が開始されましたが、その方の" 遺体 "が見つかったのは、夜が明けてからのことでした……。

海辺の観光地は、断崖に立つ展望台からの眺めがとても綺麗な場所。
自分も何度か赴いたことがあります。
そこに立つと、街や海岸線が一望できる
それくらい高い場所にある展望台。

叔父と友人がいない間に、その知り合いの中年男性は、展望台から身を投げて、自殺をしたのだと思います……。。

警察による現場検証や叔父や友人や親族への事情聴取、回収された遺体の検死の結果、ふたりはこの事件に関して、なにも疑いが無いという事実が分かると
この一連の事件は、何とも言えない後味の悪さと共に、静かに終わりを迎えたのでした。。






それからほどなくして。


ある時期には、徐々に身体も動けるようになり、同じ町内ではありましたが、その友人の方と別な場所の町営住宅を見つけて一緒に引っ越しもしていたようです。
「引っ越すことにした」
「友人と一緒に住む。」と、あらためて挨拶をしに来てくれたことで、家族も親戚も ほっ……と胸を撫で下ろして
以前より少しは安心できたようでした。


ほぼほぼ、身内親戚のなかで、叔父の存在は他人に話すこと自体がタブーとされていて
同じ町内に暮らしていても、わざわざ顔を見に会いに行くようなことは、それからは一切なかったように思います。
本人の自立と自覚を促す意図もあったのだと思いますが、世間体の狭い、田舎なのだとも思います

叔父が元気だったころは、お彼岸やお盆にうちに来てくれて、祖父母の位牌が納められている仏壇に、お線香をあげに来てくれていたんですけどね。



ですが身内と言えど、迷惑を被りながらも支え続けた側の 労力も大変さも分かるから……
突き放して様子を見るという親や親戚たちの下した判断について、
自分はそれ以上、何も言うことができなかったです。。




それから何年の月日が過ぎたのか。

通っていた病院から突然の連絡があり……
急に具合が悪くなり、救急車で搬送されました!
今すぐに来てください!」と。。

搬送されて入院してからの一連のことは、こないだ日記に綴ったような流れになります。

誰しもが心のなかで気にしていた、叔父の存在。

間借りなりにも、友人と二人でささやかに暮らしているものだと、みんな思っていた

手術を乗り越え、閉鎖病棟をも退院し
あれだけ無気力だった叔父が、
「二人で暮らすから」と、身綺麗な格好をして、我が家に報告に来てくれていた あの姿。誰しもが、安心し切っていたと思う

なのに。
担ぎ込まれた先の病院で、宣告された余命。

荒んだ生活と人生を送っていた叔父は、おそらく、心から
人生を終わりにしたい」と、そう 望んでいたのではないか……と思うことがあります

甥っ子として、叔父の生き方を見つめてきた自分には、どうしてもそう思えてならない

はからずも 道を踏み外してしまったことも
自暴自棄に、人生を生きてしまったことも……
ちゃんと自分の人生を、全うできなかった後悔も……

それは僕が評価をしたり判断をすることでは決してないですが、少なからず、その気持ちが いまの自分には分かる気がする。理解できる気がします。
やっぱり、血の繋がった、僕のおじさんなので。。

搬送された病院へ駆けつけ
病室で久しぶりに顔を合わせたとき

叔父がかすれた声で発した第一声は、
おれ、死ぬのか……?」  でした

逆に突き付けられた言葉の重みと沈黙に耐え兼ねて、

「自分はどう思うの?!」
「人間の寿命は、自分で勝手に決められるものじゃないよ」と平静を装い、苦笑いしながら答えましたが……

その返事さえ全く意味を成さないくらい
叔父は、自分の余命について、何かしら感じ取っていたのだと思います。。

その様子を見、諦めと同時に
どこか安堵したようにも……
僕の目には そう見えました。。




亡くなり、遺体として自宅に搬送された叔父を前にして
泣くこともなく、冷静に、人の死というものを受け入れてしまっている自分に対して
自分自身で、心の冷たい人間だと思った

まわりに対して、散々迷惑を掛けてきた叔父の素行を振り返ると、どうしても泣くことができなかった
そう思ってしまうことがただ、悲しかった……。



長々と書き綴ってしまいました
すみません。。

叔父の葬儀が終わったあとも、どうにも気持ちが整理できずに、しばらく悶々としたまま、これまでの叔父との付き合い方や
一緒に過ごしてきた思い出も含めて、いろんなことを思い返していました。

この日記を書けたことで、少なからず、抱えていたものを、吐き出して 気持ちを整理できたような気がします。


見苦しい部分もあったとは思いますが
この記事を見つけてくれて、わざわざ目を通してくださった方々に、お礼を申し上げます。

拙い文章ですが、この記事を読んでくださり、本当にありがとうございました。


-  紫苑  -















いいなと思ったら応援しよう!