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子どもの話を聞いてくれる大人がいたパーティーハウス(実家)

 noteでいつか、亡き父の思い出を書こうと思っていた。

 父は昭和18年(1943年)、太平洋戦争終戦の2年前に生まれた。食べ物に困ることが多かったそうで、子ども時代、コメの代わりに食べさせられたサツマイモが嫌いだと言っていた(当時のサツマイモは今のような美味しいものではなかったそうだ)。

 子だくさんの家の末っ子として生まれ、実母は生後すぐ他界、よその家に預けられ、家庭のあたたかさや両親の愛を知らずに育ったという話を母から良く聞かされた(母は正反対の箱入り娘で、違った意味でユニークな人だ)。

 本人はあまりそういう話はしなかったけど、当時似たような境遇の子どもは少なくなかったらしい。父は、その家で一緒に育った年上の男性のことを実の兄よりも、兄ちゃんと呼んで慕っていた。

 その父は、平成17年(2005年)に骨髄異形成症候群(白血病)が原因で、入院から1年足らずで旅立ってしまった。62歳だった。

 息子が生まれてから父のことを思い出すことが多くなった。

 子育てでつまづいたり悩んだとき、こんなとき親父なんて言ってたっけ?と思いを巡らせたり、

 つい声を荒げてしまったとき、あ、いまの昔親父にされて嫌だったことのコピーじゃん...とか。

 もちろん良い思い出の方が圧倒的に多い。彼の育った境遇からは想像できないほど優しい父親だった。

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 ニュースや本で様々な家族の話を見聞きすると、自分は本当に恵まれていたなと思う。

 しかし、なんと言っても子どもの頃の忘れられない思い出は、父が作品を創り、弟子たちを教え、僕ら兄妹が遊び場にしていた大きな書道の稽古場での出来事の数々だ。

 父はとにかく友人と過ごすことが好きだったし、友人も遠慮なく家にやって来た。なにかの相談に来る人も多かった。

 クリスマスの夜、子ども部屋の窓から酔ったサンタクロースが大声で歌いながら乱入してきたことも一度だけではない。とにかく周りにふざけた大人が多くて、自分たちで「キチガイ部落」と名付けていた。

 (ちなみに近所からうるさいと苦情を受けたとき、近所の人たちも宴会に呼んで巻き込んでいた。それはナイスアイデアだと子ども心に思った)

 我が家には、父の仕事である書道や芸術の関係者は当然として、多種多彩な大人が頻繁に訪れた。朝起きると父の書斎で知らないおじさんが大イビキで寝ていることもしょっちゅうだった。

 宴会には誰を連れてきても良かったのだけど、ひとつだけ大切なルールがあった。それはウチに来て飲むときは立場や肩書きで上下関係を作らないこと

 要は、すごい偉い人や有名人が来ても接待もお酌もしないし(母だけはしてたけど)、そこに集まった人が全員平等に楽しめる空間にしよう、というものだった。

 芸術家という職業のせいか、パロトンのような人が運転手付きの高級車で乗り付けたり有名なスポーツ選手が来たりしたこともあったけど、父の友人たち(仕事はほんとにバラバラ)は一向にお構い無しでいつも通り酔って絡んで騒いで一緒に歌ってた。

 そして、大人たちが飲んで騒いでいるところに僕ら兄妹が入っていっても「早く寝なさい!」とか「大人の時間だよ」とか言われたことは一度もなかった。

 稽古場がガヤガヤしてくると、僕らもそろそろだなと宴の中に入って飲み物を手にとり、お気に入りのお兄さんやお姉さん(たまに優しいおじさん)の膝にちょこんとのせてもらったり、ビールの泡を舐めさせてもらったり、甘そうなおつまみやお菓子を物色しながら宴の中を回遊し、あっちで論争してれば輪の中に入ったり、女の人を一生懸命口説いているおじさんの背後で聞き耳をたてたりしていた。

 我が家のハウスルールは子どもである僕ら兄妹にも適用されていたから、大人が喧々囂々と何か論を戦わせている場所に入って7歳の小僧が意見を言っても、そこにいる大人がちゃんとリスペクトして耳を傾けてくれた。

 おそらく、僕が大人になってからも臆せず意見を言おう、対話しようと思えるのは、こういう環境で様々な大人に自分を受け入れてもらった経験に基づいているのだと、今になって思う。貴重な経験をさせてもらった。

 そんなわけで、我が家でパーティーするときも同じルールを適用しているのだけど、子どもたちが来るとやっぱりゲームや携帯の画面に夢中になっているのがちょっと寂しい。

 ちなみに上の写真で裸踊りをしているおじさんたちの何名かは、当時の子どもに対する教育を憂いていて、この稽古場で意気投合した何年かあとに本当に自分たちで保育園を作ってしまった。ひとりは市長になっている。

 その保育園は今でも存続しており、毎年開かれる夏祭りが強烈だ。

 彼ら友人の総力を結集した企画が盛りだくさんなのだ。

 鱒を養殖している友人がプールに鱒を放せばつかみ取りだし、肉屋の振る舞うモツ焼きはとんでもないクオリティだし、暗くなれば仕掛け花火で盛り上げて、祭りのフィナーレは消防車を横付けさせて出店のテントまで吹き飛ばす阿鼻叫喚の大放水ショー。

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 なによりも、父の友人たちが素敵だなと思えるのは、自分たちが一番楽しんでるってこと。

 実は保育園経営は表向きの理由で、彼ら専用の剣道場と、陶芸窯と、蕎麦打ち小屋を作るためだったという可能性も大ありなんだけど(保育園の壁は折りたたみの可動壁になっていて夜になると剣道場になるように作られていた!)、子どもにとっては機嫌の良い大人が周りにいるだけで十分。

 創立メンバーはみんなおじいちゃんになっちゃったけど、いつまでも元気で子どもたちを見守っていて欲しい。みんな元気かなぁ。

 また遊びに行きたいなぁ。

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