偶然SCRAP#53: Roy DeCaravaと写真の音
(追記:2020年1月1日)
写真家ロイ・デカラーバ(1919-2009)の記事。パッと白黒の写真が目に飛び込んできた。街角の公園のベンチで寄り添う男女、同じベンチの端の端で男女に背を向けて、裁縫箱かなんかを膝に乗せて裁縫かなんかをしてる一人の女性。鳩?いや小枝が揺れてる、新聞紙とかも散らばっている。
ロバート・フランクとはまた違う街の一角のストーリーがバシャッと切り取られている。この記事では、ロイ・デカラーバの写真は「音を捉えている」と言うのである。面白いじゃないか!!
実際、ミュージシャンの写真をよく撮っていたようだが、それ以外の写真にも言われてみると「音」を感じる。言われたからそう感じるのかもしれないが、いやいやデカラーバは、共感覚(ある刺激に対して異なる種類の感覚をも生じさせる知覚現象ーwikipediaを要約)の持ち主なのかもしれない。調べたわけじゃないので本当のところは知らない。
ニューヨーク生まれの彼は20世紀後半のアメリカ人を記録した。この記事に「彼の写真をみたら、アメリカが嫌いなんて言えない」と書いてある。確かに。移民のロバート・フランクと違う。ロバート・フランクが古いわけではない。なんならデカラーバの方が年上だ。同じアメリカでも、こうも切り取られ方が違うのかと当たり前だが興味深い。もし、ロバート・フランクはデカラーバを撮ることはないんだろうけど、デカラーバがロバート・フランクを撮っていたら、その写真から「どんな音」が聞こえるのか見てみたい。それを見てたらロバート・フランクは少しは救われていたのかなぁ。
記事の最後にこうある「世界を見るたった一つの方法は、聞くことだ。さぁ、聞きに出かけよう」。カッコいい~
(初投稿:2019年12月16日)
イギリスのアートマガジン「Frieze」に掲載のレビューを引用紹介します。
Reviews/
Roy DeCaravaと写真の音
BY ANDREW DURBIN
12 SEP 2019
New YorkのDavid Zwirnerで開かれている2つの展覧会は、今と過ぎ去りし世界の音を捉えるこのアーティストの能力を守っている
New YorkのDavid Zwirnerで開催されているDeCaravaの新しい写真展は、20世紀後半のアメリカ人の生活の驚くべき記録である。DeCaravaの写真は、人々に踏まれてすり減ったマンハッタンの通りのモダニズム的な幾何学模様と歌手やミュージシャンや画家といったアメリカの花柳界の人々、名もなき通りすがりの人々、自由を求めるデモ行進する人々、レストランや銀行や公園にいる男性と女性たち、このような人々の面々が収められている。彼の作品は、馬鹿げた矛盾と美しさを持つこの都市と国の愛らしくて魅惑的な肖像画なのである。私は、展覧会が永遠に終わることなく、トーテムや墓石のようにそこにずっとあって欲しいと願わずにはいられない。
「Jimmy Scott singing」(1956)は、ボーカリストの組み合った両手にピントをしっかり合っていて、頭はぶれている。消え去りそうな彼の眉は、ジャズに合わせて喜びと悲しみの両方を思わせる。私はこの写真から音が聞こえるのだ。私をこの写された瞬間から切り離していた年月を超え、この写真に欠かせない静寂の至るところから。1953年のアイゼンハワー大統領の就任式で「Why Was I Born?」(1929)を歌うScottの高く震わせたコントラルトの声が聞こえるのだ。シンプルに言えば、「ワオ」だ。
Roy DeCarava, Edna Smith, bassist, 1950, photograph. Courtesy: © 2019 Estate of Roy DeCarava, all rights reserved, and David Zwirner
これらの写真の世界を大嫌いだと言う方が難しい。もしかつて―また今でも―世界が、アメリカが、DeCaravaの最も重要な被写体である黒人の男性や女性や子どもたちに対して、非常に激しく敵意を抱いていたとしても、である。飾り気がなく、見事で、力強い影と光の作品は、魅惑と欠乏が何とか共存する世界であり、ずっと続く不安定な綱渡りのように、それぞれが(確かに、主張はし合っているものの)抗い合っているわけではない。一見永遠に荒れた状態に見えるニューヨークやアメリカなのだ。
しかし、重要なのは、これらの写真には、強烈な性格と個性が吹き込まれていることだ。これらの写真は、前述した政治的な問題に真っ向から挑みかかる。1951年の作品では、一人の幼い少年が、瓦礫の山の中で、手のひらに顎を乗せて座っている。写真の日付の一年後、バーレスクのパフォーマーのGypsy Rose Leeはきらびやかなリムジンから出て来て、おそらくクラブの仕事に向かう。「Babes in Bagdad」(1952)で主役になる前のこと。「Graduation」(1949)では、輝くほど白く床まで届く長いドレスを着た女性が、ゴミの散らばった歩道を横切る。後ろには、シボレーの「All-Star Line」のビルボードが見えている。1961年の作品では、顔が判別しづらい白人男性達が、暗がりを自信たっぷりに歩く。「Pepsi」(1964)では、男がペプシのボトルの山の上で眠る。1975年の一つの作品では、頭巾のついた外套を着た何者かが、原子爆弾「Little Boy」の模型の横に立っている。(最後の写真では、今にも爆発しそうな時に現れるDeCavaraの被写体たちの気運の中に、あの暗澹たる相関を見出すことができる)。
Roy DeCarava, Hand and coat, 1962 photograph. Courtesy: © 2019 Estate of Roy DeCarava, all rights reserved, and David Zwirner
1963年、DeCaravaは、仕事と自由を求めるワシントン大行進 [the March on Washington]を撮影するためにアメリカの首都に出向いた。「Mississippi Freedom Marcher, Washington, D.C.」(1963)では、DeCavaraのカメラの前を過ぎた一人の女性が神聖なる目的を持って前を見据えている。誰かが話している。そして、彼女は聞いている。DeCaravaも聞いているような気がする。写真を見るのと同じように、これらの写真からは被写体の声が聞こえるのだ。もちろん、写真には不可能なことなのだが、しかしこの写真家は、ミュージシャンたちの手や唇や目に対する愛情を持ち、全てを捉えてしまう。感動する共感覚的な喜びは、細部まで音を鳴らそうとするこのアーティストの関心で満ちている。―風で女性の髪がサラサラいう音。炎が電球ガラスの中でチラチラいう音。寝ている男の横で鳩がクークーいう音。線路の上を走る電車がガタガタいう音。Edna Smithの手が彼女の楽器を調整する音。一人で本を読んでいる人がページをめくる音。特にミュージシャンは、DeCaravaの長いキャリアに渡り、ずっと撮影されてきた。彼らは、写真の音の可能性についてよく理解しているような気がする。世界を見るたった一つの方法は、それを聞くことだ。さあ、今度は聞いてみよう。
Roy DeCaravaの「Light Break」と「the sound I saw」はNew YorkのDavid Zwirner(それぜれW 19th StとE 69th St)で2019年10月26日まで開催中。
Main image: Roy DeCarava, Couple and lady, Bryant Park, 1963, photograph. Courtesy: © 2019 Estate of Roy DeCarava, all rights reserved, and David Zwirner
ANDREW DURBIN
Andrew Durbin is senior editor of frieze, based in New York, USA. His novella Skyland is forthcoming from Nightboat Books in 2020.
訳:雄手舟瑞
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