偶然SCRAP#46: 映画レビュー『ジョーカー』
先々週末の土曜、『ジョーカー』を観た。前日の夜に日本橋のTOHO Cinemasの朝一の回を予約した。朝、チャリで行こうか、電車で行こうか迷った挙げ句、チャリで最寄り駅まで行った。一旦、チャリを停めたものの、撤去のリスクが急に心配になって日本橋まで結局乗っていくことにした。会場時間、ちょうど。
テレビでJOKERの予告を観て、久々に『ダークナイト』シリーズが観たくなった。『ダークナイト』シリーズは、7年くらい前にBlu-rayで揃えた。だが、いくら探しても見当たらない。誰かに貸したようだ。世界観、スケール感、物語の重厚感の全てが揃った大作。その中でもヒース・レジャーのジョーカーの印象が強烈に焼き付いている。だからこそ、そのジョーカーの物語が観たくなった。前評判で、「R15指定なのはそれなりに理由がある。子どもに見せてはダメ」とか、アメリカでは銃の乱射事件が起きるのではないか、といった話も上がっていた。悪が悪になるまでの過程。それを観たら、そんなことをしてしまう輩が現れるのではと懸念してしまうのは分かる。
この『ジョーカー』はスタンダップ・コメディアンを目指すピエロの派遣業で働く男アーサーがジョーカーになっていくまでを描く物語。アーサーはリヴァー・フェニックスの弟ホアキン・フェニックスが演じている。アーサーは、ストレスが掛かると笑い出す発作を持つ神経症を抱えている。そんなアーサーを「ハッピー」と呼び、周りを笑顔にする才能があると褒める母親。母親は身体が悪く、アーサーはそんな母親を献身的に支えながら、コメディアンになる夢を持っている。彼はテレビの中のコメディアンに憧憬の眼差しを送る。
しかし、彼は神経症の影響もあり、コミュニケーションを取るのが上手くはなく、母親以外からは冷たく扱われている。彼は負けずに笑いのネタをノートに書き続ける。彼は人を笑わすことができる可能性が残っている以上、その可能性を信じて全てを我慢できるのだ。ただ、状況は好転するどころか、同僚の意地悪等々から仕事を失うなど、悪化の一途をたどる。理想と現実のギャップが物語を通じて拡がっていき、彼を引き裂いていく。そして事件が起こる。彼はウェイン産業のエリートを射殺してしまう。これがトリガーとなり、ヒーローが自分の特殊な才能を自認するが如く、図らずも転倒した価値観の中で彼は自分の安息の地が足元にあったことに気づくのである。そして完全無欠のジョーカーとなってゆく。
これは、典型的なヒーローズ・ジャーニーに則った展開だ。そのアンチ・ヒーロー版。だからこそ共感性があり、上映前の懸念も理解できる。ただ、これはあくまでもエンターテイメントであり、アンチ・ヒーローの形式でハリウッド式エンターテイメントを成立させるには、あのトリガーが必須なのだ。ここにリアリティはない。そのせいで急にフィクション感が浮き上がってきてしまう。もちろん物語としてキチッと出来ているので引き込まれるし、ホアキン・フェニックスの素晴らしい演技はジョーカーの映画を引き立たせている。これをギリシャ悲劇的な、人間の性的な物語と頑張って捉えられなくもないかもしれないが、個人的にはこの映画の直前に観た『アンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のスルメ的な味わい深さの方が好きかもしれない(なぜだか涙さえ出てくる)。やはり『ジョーカー』は、ザ・エンタメ・ハリウッドなのかなと感じた。とは言え面白く、『ダークナイト』シリーズがまた観たいという欲求がさらに強まった。本当に巧く出来ている。
映画を観終わり、席を立とうとしたら膝が固まって、「イタタタ」となり、若干、足を引きずるような感じで歩く羽目になった。周りの人から、「映画に影響されちゃってるよー」と思われたら恥ずかしいーとか思いつつ、結局影響を受けるわけで、タバコが無性に吸いたくなったのである。僕はコレド日本橋近くのドトールに行った。そして、アイコスを吸いながら、自分を方向づける上で、個性―できること、できないこと(それは脳に原因があるのかもしれない)―を把握と、その個性に対する周囲の理解が欠かせないのだな、そして他者への自己投影の害悪を改めて認識したのであった。それが社会にジョーカーを生ませない、またジョーカーなしに社会を変えていく道なのだろう。
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