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読みきり小説『プレゼント』
*この小説は、認知症や高齢であることによりケアを必要とする人の物語を「その人の世界」とし、全く同じ場面をケアする人の視点から「もうひとつの世界」として描いた小説です。
【その人の世界】
あれ、今月は何かあったような気がする。
「今月って、何かあったよね」
キッチンでコーヒーを淹れる娘の後ろ姿に声をかける。
「何かって?」
振り返らずに娘が言う。
「だからそれが何だか分からないのよ。でも何かあったでしょう」
そのうち思い出すんじゃないの、とけだるそうに答える娘の背中を見つめながら、そうだ、と思い当たる。
「誕生日だ。今月、誰かの誕生日があるでしょう」
「誰の?」
「それが誰だか分からないのよ。でも誰かがそうでしょう」
しょうがないなあ、と苦笑した娘が振り返る。
「私のだよ」
「えっ、何日?」
「分からないの?」
分からない、と答える。娘の誕生日を忘れてしまうなんて。
「ケーキを買ってきてちょうだいよ。お金を渡すから」
のそりと立ち上がった私が茶だんすの引き出しを開けて財布に触れると、娘の声が尖った。
「ケーキなんかいらない。自分の誕生日に自分でケーキなんて買いたくない」
「そんなこと言わないでちょうだいよ。どんなケーキを買ったらいいか分からないんだもの」
「だからいらないって言ってるでしょう。それに誕生日は今日じゃないし」
へそを曲げてしまった。そりゃあそうだ。自分の誕生日を母親が忘れてしまったのだから。
「もう本当に、何も憶えていられなくなっちゃったの。今日が何曜日かも、何の予定があったかも、何も」
情けない、と私は目頭を押さえた。どうしてこんなに憶えていられないのだろう。忘れるはずのない大切なことを忘れてしまうのだろう。
「そのうち、私のことも忘れちゃうよ」
娘が呟いて、私は顔を上げた。
「いや、それはない。どんなことがあっても、それだけはない。他の何を忘れても、あなたのことだけは忘れない」
むきになった私をちらりと見て、娘はコーヒーをすすった。
*
いよいよ……ほんとうに、なにも、わからなくなった。
「すみません……。ここは、どこ、ですか……」
となりでズボンをはかせてくれたお姉さんにたずねてみる。
「ここは、トイレですよ」
いや……そうじゃなくて……。ここ、っていうのは……。
「ここは、施設ですよ」
「しせつ……」
やっぱり、わからない。どうして、おうちに、いないのかしら……。
「手を洗いましょうね」
水道にいって、お姉さんとふたりで手に石けんをつける。お姉さんがわたしの手をあらってくれた。
「食事に行きますよ」
お姉さんといっしょにドアを出ると、わたしたちは広いおへやまであるいた。
「ねえ……今日は、なにか、あったでしょう」
手をつなぎながら、お姉さんのかおを見る。
「何かって?」
それが……なんだかわからないのよ。
「何でしょうね。今日は特に、何もなかったと思いますけど。ああ、お風呂ですかね」
おふろ? ちがう、そういうことじゃない。
「なにか、だれかの……」
「誰かの?」
そう、だれかの。
「誰かの……何か、記念日ですか」
「あっ」
「もしかして、誕生日」
ああ……そう、たんじょうび。そうね、そうだったわ。今日はたんじょうびだわ。
「どなたのですか」
どなたの、それは、それは……。
「まみちゃん……」
「まみちゃん? 娘さんですか」
「そう。ケーキを、かわなくちゃ……」
「ケーキを? いいですね」
お姉さんがにこっとわらった。そうよ、だって、あの子はちいさいときから、たんじょうびにはケーキをかってもらえると、おもっているんだもの。
「どんなケーキにしますか」
「うーん、それはね、あの子がじぶんで、えらぶのよ。じぶんでえらびたい子なの」
「じゃあ、一緒に選びましょうね」
そうね、とわたしも、お姉さんみたいに、にこっとする。またうっかり、わすれなくてよかった。あの子はすぐに、へそをまげるのだから。
【ケアスタッフの世界】
ちょうど廊下でエレベーターを待っている時のことだった。玄関に見えるのは清子さんの娘さん。
「こんにちは」
駆け寄って会釈をすると、こんにちは、と娘さんの声が明るい。
「もう母は、私が誰だか分からなくなっているんです。娘がいたことも忘れてるみたいで」
面会を終えた娘さんが伏し目がちに笑う。
「そうですか……」
そんなことはない、とは言えない。確かに清子さんは半年前よりも明らかに娘さんのことを話さなくなっているし、帰りたいとも言わなくなっている。
「勝手なもので、帰りたいと言われても困るけれど、言われなくなるのも淋しいものです」
「そうですね……」
「でも先日、日記が出てきたんです。私が書いた日記なんですけどね、まだ母が家にいた頃のものでした」
「わあ、そうですか」
「はい。母が私の誕生日を忘れてしまった日のことが書いてありました。私がすねて、いつかは私のことも忘れちゃうんだろうと言ったんですね。そしたら母が、私のことだけは忘れないと」
「はい」
「そう言われた時はへそが曲がっていたので嬉しくもなかったんですけど、あの時の母の言葉がプレゼントだったと、今になって思うんです。他の何を忘れても、私のことだけは決して忘れない、そう思ってくれた母の気持ちが、あの日、母からの最高の誕生日プレゼントでした」
「最高のプレゼントですね」
「はい。今では本当に私のことを忘れてしまいましたけど、忘れたくて忘れたのではないと分かっています。本当は忘れたくなかったということを、私が憶えていることにします」
「私も、憶えていることにします」
私の言葉に娘さんは、ふふっ、と息をもらしてから瞳を潤ませた。
「ありがとうございます。あの頃、たくさん言葉を交わしておいて良かったです。今になってこんなにも支えられるなんて」
「支えられているんですね」
はい、と頷いて、娘さんは指先で目尻を拭った。
「ここの施設は短時間でも面会を許してくれるから有難いです。またしばらくしたら来ます。お忙しいところ引き止めてしまってすみません」
深々と頭を下げて玄関を出た娘さんを見送ると、私はフロアへ戻った。
*
「すみません……。ここは、どこ、ですか……」
手すりに掴まった清子さんがたずねる。トイレで排泄を済ませ、私にズボンを上げられているところだった。
「ここは、トイレですよ」
私の言葉に清子さんが沈黙する。知りたかったのはそういうことではない、という顔。
「ここは、施設ですよ」
「しせつ……」
どうして家ではないの、とかつての清子さんなら続けていた。きっと本当は今も、そう言いたいに違いない。
「手を洗いましょうね」
転びやすい清子さんの手を取り、洗面台で一緒に手を洗う。
「食事に行きますよ」
廊下に出て足並みを揃える。清子さんが私の顔を見上げて言った。
「ねえ……今日は、なにか、あったでしょう」
「何かって?」
また清子さんが沈黙する。
「何でしょうね。今日は特に、何もなかったと思いますけど。ああ、お風呂ですかね」
おふろ? と唇を動かして、清子さんが眉をひそめる。どうやらそういう話ではない。
「なにか、だれかの……」
「誰かの?」
ふと、さっきの娘さんの話が胸をよぎる。
「誰かの……何か、記念日ですか」
「あっ」
「もしかして、誕生日」
そうだ、と言わんばかりに清子さんの瞳が輝く。
「どなたのですか」
「まみちゃん……」
「まみちゃん? 娘さんですか」
「そう。ケーキを、かわなくちゃ……」
「ケーキを? いいですね」
思わず笑みがこぼれてしまう。
「どんなケーキにしますか」
「うーん、それはね、あの子がじぶんで、えらぶのよ。じぶんでえらびたい子なの」
「じゃあ、一緒に選びましょうね」
そうね、と清子さんが目を細める。
そうなんだ。母親しか知り得ない娘のことを、清子さんはちゃんと憶えている。認知症があっても、ずっと認知症なわけではない。
伝えなくちゃ。忘れてしまう時もあるけれど、そうでない時もあることを。娘さん、お母さまは忘れていません。本当に誕生日が今日なのかは分からないけれど。
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