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認知症介護小説「その人の世界」vol.3『ほら、見えるだろ』

6時50分。

この時間に客がいなくても、征男は7時の閉店時間を過ぎてから片付けを始める。

地域で店を開いて数十年、征男にとって床屋は天職だった。それは理容の腕が優れているためだけではない。征男にとって床屋の仕事とは、髪を切り髭を剃るだけではなかった。征男が一番大切にしているのは、客との関わりだった。

客に触れながら話しをすると、相手の人生の断片に触れることができた。それによって征男は、金に代え難い教訓や幸せを得ていると感じていた。それは、相手が大人であっても子どもであっても同じだった。征男は、客に限らず人の訪問を心から歓迎した。世間話をして帰る大人もいれば、飴玉だけをもらって帰る子どももいた。

「今日はもう来ないかな」

時計を見上げた征男が振り返ると、シャンプー台に少女がちょこんと座っていた。

「おや、気がつかなかったぞ」

征男は少女に向き直って近寄った。年の頃は7歳ほどだろうか、おさげ髪に赤いリボンを結んだ少女である。ぱっちりとした二重の瞳に長いまつ毛が可愛らしかった。きゅっと結んだ唇が賢そうに見える。丸襟の白いブラウスに紺のジャンパースカートを着ており、膝下のハイソックスにはレースがあしらってあった。

「お嬢ちゃん、いつからそこにいたんだい。おじちゃん、気がつかなくて悪かったな」

少女は行儀よく揃えた膝の上に両手を載せていた。

「でも、こんな時間に一人でいたら、おうちの人が心配するだろうよ」

征男の言葉に、少女は視線を床に落としたままじっとしていた。

「なんだい、なんだい。叱られるようなことでもしたか?」

征男が少女の前でしゃがんだ時、自宅に通じるドアが開いた。

「お父さん、誰と話してるの」

顔を出したのは長女の美代子だった。

「誰って、ここにいるじゃねえか」

征男が口を尖らせると、美代子は怪しむように目を細めた。

「また何を言ってるの。誰もいないわよ」

「いるじゃねえか。お前もとうとう目くらになったか」

「いつもそんなこと言って。私の目は正常よ」

「そんなら見えるだろうよ。この可愛いお嬢ちゃんがよ」

すると美代子は右足で床を強く踏みつけ、大きな音を立てた。

「そんな子いないわよっ」

「子どもが驚くじゃねえかっ」

征男は美代子を一喝すると、少女の顔を見上げた。

「お嬢ちゃん、ごめんよ。そんな子なんて言ってな」

「やめて」

「まったく可愛い子だなぁ」

「もうやめてっ」

美代子が声を荒げたのも構わずに、征男は続けた。

「このあたりでは見かけない子だなぁ。だけど見れば見るほど、小さい頃のお前にそっくりだ。目がくりっとしてよう」

征男はしゃがんだ膝の上で頬杖をついた。

「お前は可愛くてなぁ。母ちゃんが忙しいと俺がおぶって店に出たもんだ。よくお客さんと遊んでたっけな。お前は、お客さんに育ててもらったようなもんだ」

征男は頬杖をついたまま、どこを見るでもなく部屋に視線を移した。

「俺は床屋をやっていて本当に良かった。お客さんにはずいぶん良くしてもらった。けどな、感謝するのはお客さんだけじゃねえよ。どんな人だって、きっとどこかで巡り巡って世話になっているだろうよ。そう思うと、誰にだって俺は感謝するんだ」

しみじみと語る征男の背中を、美代子は黙って見つめていた。

「そこにでっかい虫がいるだろう。お前は薬をぶっかけて殺すかもしれない。こんな虫がいたら迷惑だと思うだろうよ。けどよ、そのぶっかけた薬を売って家族を養ってる人もいるんだぜ。その人がうちのお客さんになるかもしれねえんだ。そうしたら俺は、この虫にも感謝した方がいいってことになるか?」

征男は高らかに笑った。

「俺はな、俺の目に映るすべてのものに感謝してるんだ。何がお前を幸せにしてくれるか分からねえからな」

「お父さん……」

呟いた美代子を征男は振り返った。

「それが、お前の親父だ」

美代子の目頭に熱いものがこみ上げた。

「お父さんの目に映る……すべてのものに……」

美代子は両手で顔を覆った。

「感謝を……」

それ以上は言葉にならなかった。声を押し殺して泣いた美代子を、征男は穏やかな瞳で見つめていた。美代子は両手で頬を拭うと、シャンプー台に近寄った。

「お父さん、本当ね。とっても可愛い子……」

美代子の言葉に征男は満足そうな笑みを見せた。

「お嬢ちゃん、おうちに帰ろうな。その前に飴玉やるからよ」

飴玉の入った缶を棚へ取りに行き、征男はシャンプー台を振り返った。

「あれっ」

シャンプー台に、少女の姿はなかった。

「いねえな。どうした」

缶を持ったままの征男に美代子が微笑んだ。

「出て行ったわよ。外にお母さんが来て」

「そうかい。それにしちゃ早いな。今そこにいたのに……」

首をひねった征男の肩に、美代子はそっと手を添えた。

「お父さん、ごはんにしよう」

店の時計が7時のメロディーを奏でた。

※この物語は、在宅介護の場面を描いたフィクションです。

【あとがき】
このショートストーリーは、びまん性レビー小体病の男性が主人公です。この病は個人差があるものの、初期の頃は記憶障害よりも幻視が現れると言われています。そのありありとした幻視によって穏やかな生活が阻害される場合もあることから、少しでも症状をポジティブに捉えることができたらという思いを込めて書きました。大事なのは人や虫の存在が事実かどうかではなく、本人にはそう見えているということです。「否定しない」というよりは、「一緒に見ようとする」方が素敵だなと思っています。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは誰もが持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。より深い理解を得るため、物語の力を私は知っています。

※この物語は、2015年11月に書かれたものです。


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阿部敦子
私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。