【#1-3:散策コラム 身投げ伝承が残る広島県北最大の花街跡】
1.今回の散策場所について
朝夕に秋の足音が聞こえつつありますね。季節の変わり目にいかがお過ごしでしょうか?今回は広島県三次市の一角、松原稲荷通り(大正遊廓跡)を散策します。
三次市は広島県北に位置する人口5万人規模の比較的小さな都市です。古くより山陽と山陰を繋ぐ要所として位置付けられていました。また江戸時代には広島支藩の一つとして三次藩五万石の城下町でもあったのです。(※その後広島藩領に戻ります)
そして今回の散策場所が嘗ての三次藩政時代のの中心部でした。
尚、芸備線開通1915年以降は現在の三次駅付近が市街地として発展し行政・商業の中心となっています。
2.此処に遊廓が出来たのは何故?
では、藩政時代には花街とは程遠い場所に何故遊郭が作られたのでしょうか?
理由としては以下が考えられます。
a:維新後、この地一帯が農地になった為。
b:明治維新後も周辺地域の商業の中心地であり、
新しい産業が必要であった為。
c:周辺に花街を有する街が無かった為。
その後に鉄道開通があり、更なる需要が生じる事となりました。
しかし、他の跡地と異なるのは昭和5年発行「全国遊廓案内」に記載がない点です。そこで地元の郷土史『三次町の歴史と民族』を調べると全盛期は大正十二年であり芸者100名余り、私娼130名程が在籍と記載がありました。また彼女達は四国九州から来た者が多数と書かれています。
(※瀬戸内地域の遊廓にもこれら地域出身者が多い様です。)
これらより、ここが地方都市の割には比較的大規模な遊廓であったことが伺えます。
港湾、工業地帯、軍事施設の何れも無いこの地にこれだけの規模を有する場所があった事は個人的には驚きでした。
3-1.この地に残る伝承-馬洗川に身投げした遊女-
全国各地の遊廓跡には数々の悲劇的な伝承が残っています。飢餓や借金のカタとして売られて来た女性が過酷な環境から逃げ出したい一心で命を投げ出した事例がこの地にもあります。
目の前に流れる馬洗川の対岸(※鵜飼で有名ですね)には嘗て厳島神社の分祠があり、そこへの参拝を名目にして脱走する遊女が後を絶たちませんでした。溺死する者もいる中、捕まった者は建前として厳島分祠への信仰を口述し悪意を否定したと言われています。
3-2.この地に残る伝承-三次だんご-
前項から時代が経過し、戦後に売春防止法が施行されると遊廓は赤線に名前を変えて営業を継続します。そこで働いた女性達の俗称が”三次だんご”でした。
何故だんこなのか?当時の隠語では売春=ころがる、転がしやすいとして表現された為です。
又、当時を知る方から伝聞した話では、顧客は出張や移動途中でこの地の訪れた者から周辺地域の者まで多岐に渡ったそうです。
4.現在の遊廓跡
それでは現在の跡地を散策していきます。
現在の名称が記された看板の横に立派な妓楼建築が残されています。今は倉庫として利用されている様です。
以上が散策した場所の風景でした。昼まであった為、人の気配が無く別世界に入り込んだ感覚で彷徨う事となりました。
5.散策後の所感
今回の散策を終えて感じたのは、これまでの二か所を上回る”寂しさ”、”虚しさ”でした。
その理由として現在の姿が荒廃している点、及び身投げの伝承を示す場所を具に見た点です。
前者はこの場所はおろか、三次の街自体が機能縮小せざるを得ない現状がある為です。この地では長年の人口減少や近年の三江線廃止に至るまで嘗ての広島県北の中核都市としての機能が年々減少しています。
これら一連の流れを見ると確実にこの国は複数の面で”縮んでいる”のです。その一つの象徴たる場所に思えてなりません。
逆に身投げ伝承の地を歩いては、今日の日本社会の成熟が理解出来ました。もう彼女達の様に強制的に集団で無縁の地に連れられ、絶望の果てに命を絶つ事は無くなったのですからね。6.纏め
皆様、如何でしたでしょうか?今回の散策は…。個人的には初めて生々しい話に触れ、花街の闇を知れました。それと同時に縮む日本の中で忘れられる過去の現実が存在し、そのハード(建物)も消え去りつつある姿を目の当たりにしました。その為、これまで以上に儚さを感じました。それと同時に身近な場所で埋もれた歴史が未だ存在していることを知り、今後の掘り出しに意欲を掻き立てられました。
今回は以上です。次回以降も宜しくお願い致します。