我が家のように心地よい・・ 「山の上ホテル」 (創業 1954年)
(「新・美の巨人たち」テレビ東京放映番組<2021.3.6>主な解説より引用)
東京の真ん中に佇み、作家たちが愛した宿「山の上ホテル」は、神田駿河台1丁目1番地に建ち、部屋数はたったの35室である。ただし、どれ一つとして同じ造りの部屋はない。
「東京の真中にかういふ静かな宿があるとは思はなかった。サービスも素人っぽい処が実にいい」とかつて語ったのは、三島由紀夫である。
豪華さや高級感を売りにはしていない。ただ、まるで我が家のように心地よいとして、文士の常宿あるいは仕事場として、こよなく愛されたホテルがそこにある。
川端康成、松本清張、池波正太郎、山口瞳、高見順らが、ここへ泊まった。
創業は、昭和29(1954)年。創業者は吉田俊男氏で、設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏。2年前の修復工事により竣工当時の姿に復元された。
ヴォーリズ氏は、キリスト教の伝道師として1905年に来日。神戸女学館といったミッション系の学校をはじめ、旧神戸ユニオン教会、大丸(大阪心斎橋店)、東華菜館などの設計を手がけた。
この建物で重視したのは、建物自体の美的感覚よりも、そこで生活をしたり使ったりする人の「生活感覚」を中心に考えて、生活空間をいかに心地良く過ごすか、そして構造上、健康に資する者を入れるには、どうしたら良いかを中心に考えたという。
こうして、当時の石炭王・佐藤慶太郎(1868-1940)が依頼した研修施設が、現在の山の上ホテルの前身である「佐藤新興生活館」として誕生した。さらに特徴的なのは、階段の蹴上(けあげ)部分を、通常の23センチ以下のところ、日本人向けに大きく段差を低くして18センチとした上で、建物全体のスケールも計算され、設計に反映させたのは、画期的な取組みであった。
403号室の庭付スイートルームを定宿にした池波正太郎は、「連日、根をつめて仕事をしている者にとっては、ぼんやりしていることが何よりの薬なのだ」と語った。
また、山口瞳は、「一番だというのは、一番上等だという意味ではない。一番好きだと言ったほうがいいかもしれない」と。高見順に至っては、「できることなら、このホテルで死にたい」とも。
創業者の吉田俊男氏は、ホテル経営の素人ではあったが、「西洋の小さなホテル」と「日本の旅籠」を組み合わせた「西洋旅籠」を目指し、従業員育成などの「人づくり」に力も入れた。「自分の足、自分の目で本物を見てこい」として、勤続5年以上の社員は、積極的に2週間から1か月に渡り、海外の一流ホテルを旅させた。
このホテルを体験したアートトラベラーの又吉直樹氏は、「ホテルに必要なものがすごくいい形で全て揃っていた。ゆっくりと休め、仕事にも集中して取り組めた。このホテルに流れてきた時間が、いい形でこの場所に堆積しているような感覚を抱く・・・」と感想を語った。
(同番組を視聴しての私の感想綴り)
最近のホテルといえば、合理的でスタイリッシュ、欧米の最先端のデザインや食事のセンスや味など、特に東京のような大都会にあっては、そうした形態のものが好まれるのは、時代の趨勢でもあろう。より早く、より効率的に、より合理的に、よりスタイリッシュと、宿泊客のニーズに応えうる「おもてなし」がそこには一応ある。
ただ、なぜ「山の上ホテル」のような、「よそ行きの顔でないホテル」、「昔のままの佇まいをあえて残しているホテル」が、ここまで文人たちらにこよなく愛されてきたのか。
突き詰めていくと、「本当の贅沢」「本物の贅沢」とは何かといったことにも、突き当たるような気がした。
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