謙遜しすぎは傲慢である説
謙虚なんだけど謙遜しすぎない、
絶妙なバランス感覚の経営者の方々から、
「謙遜しすぎは傲慢である説」を聞くことがあります。
具体的には、
会議の司会や何かのリーダーや、はたまた昇進のときなど、
ある役割を頼んだときに、
「自分にそんな資格があるのか?」と考え過ぎる人がいると。
それは一見、謙虚そうだけれど、
「そんな資格があるかどうか」は他者が決めることであり、
自分で決めるというのは、
自分自身に対しても他者に対しても傲慢である、と言うのです。
人をこき使う経営者たちではないので、
素直に受け入れて成長してほしいという
願いも込められていると思います。
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次のような場合も、
謙遜しすぎは傲慢である説になるかと思いました。
前に、私がTwitterである人のことを
「明るくて賢い人」と書いたら、
「人を賢いと判断するのは不遜だ」
というようなリツイートがあったんです。
それで私は、「賢い」とは才知・思慮・分別などが
優れている様のことなので、
上から目線ではないと書いたのですが、
リツーイトした人は、日ごろから、
「人が優れているかを評価する主体に
自分がなりうるかと考えていた」ために
反応したとコメントが来ました。
これって、謙遜しすぎは傲慢である説では?
「人が優れているかを評価する主体に自分がなりうるか」
と、謙遜している体(てい)の人が、
Twitterでちょっとひっかった投稿を書いた人を
不遜だと評価しているわけで、なかなか傲慢(笑)。
それに、「賢い」と書くのが不遜なら、
「あの人は優しい」
「立派な人だ」
「努力家だ」など、
あらゆる形容詞は不遜である、となります。
「私は人を優しいと評価する主体になりうるだろうか」
「私は人を立派だと評価する主体になりうるだろうか」
いちいち悩まなきゃなりません。
謙遜しすぎは、自分の世界を狭めてしまいます。
それは、本来は自由な自分に対して、傲慢な行為なのかもしれません。