リアリティをホログラフィックに復号化する
ホログラム概要
ホログラムとはどういうものか、下図の説明が分かりやすかったので紹介する。
レーザビームを特殊な鏡で、一部は透過させ、一部は反射させることで2本のビームに分ける。
反射レーザ光は本図ではリンゴを反射してスクリーンに至る。
透過レーザ光は拡散レンズを通してスクリーンに至る。
スクリーンに至る反射レーザ光と、透過レーザ光とが干渉を起こして波紋に見えるイメージがスクリーンに映し出される。
この波紋のイメージだけを見たら、なんのこっちゃか分からないが、この「コード化(暗号化)」された情報は次のように復号化される。
即ち、このスクリーンに映った波紋のイメージに、元のレーザ光を当てる。
すると、元のリンゴのイメージが復号化される。
ホログラムと呼ぶ現象の興味深い性質は、この波紋を微細な部分に分解したとしても、分解された各小片に同じレーザ光を当てると、鮮明さは失われるとはいえ、リンゴのイメージが復元される、という点。
ちなみにこれらの図が掲載された"The Holographic Universe"の著者Michael Talbot氏は、セス・ブックへの賛辞も寄せられている。以下に引用。
リアリティの解釈への応用
話を戻す。
これらの図を見たとき、
「これって思い込み/belief systemを通して現実を見る、ということと同じやん。」
と直感した。
一人一人が、物理的現実となって現れる「波紋のイメージ」を知覚して、物理的な経験をする。
その干渉から復元されるイメージは各者各様。
コロナウィルスという出来事に対する受け止め方や反応がそれぞれであるように。
「思い込み/belief system」というレーザ光で持って、「物理的な出来事」という波紋を復号化する。
リアリティの中の存在として興味深いのは、私たちは先の実験例でいうところの、スクリーンの中にいるということ。
そもそもこの肉体が、ある波とある波との干渉で生まれている。The soul meets flesh.
「私」がする1つ1つのアクションが、知覚が、経験が、自己理解の深まりが、このスクリーンという場に、field of activityに、あるいはなんらかの媒体とでも呼ばれるべきものに、新しい波をつくる。
すべての存在が、同時に、そうした波から生じ、波を起こし、波に影響を与え、かくしてまた自分に返ってくる変化した新しい波を経験する。
このスクリーン、場、媒体は、ホログラフィックな性質を持つので、どこを切り取っても、すべてが復号化される。
このアナロジーにおいて、「自分」というものをメンタルなものとして想像すると分かりやすいかもしれない。
すべてがエネルギーであるため、思考や感情、思い込みもエネルギーを持つ。
「人生は素晴らしいものだ。」という思い込みには、それ固有の振動数が。
「人生は苦難に満ちている。」という思い込みには、それ固有の振動数がそれぞれある。
「コロナウィルス」という波紋を、振動数の違うこれらの思い込みの波で復号化すると、違ったイメージが復号化される。
リアリティの波の基本単位
あちこちで無数に揺れる波が相互干渉して、リアリティを形成している。
このアナロジーが頭に浮かんだとき、
「波の基本単位のようなものがあるのでは?」
と直感した。
時間の概念を使うと、「始源の波」のようなものがあるような気がした。
それはきっと、
歓喜の波であるのだろう。
好奇心の波であるのだろう。
調和の波であるのだろう。
美の波であるのだろう。
豊かさの波であるのだろう。
知性の波であるのだろう。
そう直感した。
すべての波が、すべてのリアリティが、こうした波の基本単位とでも呼べるようなものから成っているから、どこを切り取っても歓びに溢れ、好奇心に満ち、調和へと向かい、目を奪われる美しさがあり、無尽蔵の豊かさがあり、どのような状況にも対処し得る知性が発揮されるのだろう。
どんな「荒波」も、過ぎてみれば良い思い出だけが残るのは、大きな波が砕けて、小さな小さなさざ波へと変わっていった時に、こうした波の基本単位が残るからなのだろう。
願わくば、嵐の最中にも、荒波のさ中にあっても、そうした歓びの基本単位を見通せる眼力・胆力を持ちたいものだ。
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