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キリストのセス・マテリアル的理解

Christ tried to return man to nature.

キリストは、人を自然へと還そうとしたのである。

One of Christ’s purposes, meaning the entity, was to teach man to see beyond the so-called facts of existence; not to deny death’s physical event, but to show the greater dimensions of that event, and man’s emergence into a new reality.

キリストの、エンティティとしてのキリストの目的の一つは、人に、いわゆる存在の事実を超えて見るよう教えることであった。物理的出来事としての死を否定するのではなく、その出来事のより壮大な意義を見せ、人を新しいリアリティへと出現させることであった。

Christ tried to tell men that he was everywhere, but they could not understand. He did not want a church, but an inner brotherhood. He was not born of a virgin, nor was his physical history any more factual than that once given for Zeus, or Apollo, or the Egyptian gods. His reality however did change the consciousness of man.

キリストは人々に、私は至るところにある、と伝えようとした。だが人々は理解できなかった。彼は教会を望まず、内的な同胞感を望んだ。彼は処女から生まれたわけではなく、ゼウスやアポロ、エジプトの神々と同じぐらい、彼の物理的な歴史は事実に基づくものではなかった。それでも彼のリアリティは、人の意識を変えてきたのである。

Jane Roberts, Robert Butts The Personal Sessions: Book Four of the Deleted Seth Material, Deleted Session January 23, 1978

ボクは神学者ではない。

キリストに関する「専門家」ではない。

と、はじめにお断りしておく。

ここでは、セスの語る「キリスト像」と、ボクのセス・マテリアルに関する理解を踏まえた、「キリストのセス・マテリアル的理解」について書いていこうと思う。

***

「キリストは、人を自然に還そうとした。」

「私は至るところにある。」

「キリストの存在は、事実に基づくものではなかった。」

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キリストとは、アイデアだ。

アイデアは、メンタルなもの。

メンタルな世界は、電気的である。

電気的であるアイデアは、電磁力を生じさせる。

キリストというアイデアは、力を生じさせる。

キリストというアイデアは、「人を自然に還そうとする」力を生じさせる。

あるいは逆に、

人を自然に還そうとする力を、私たちはキリストと呼ぶ。

そうした働きを、キリストと呼ぶ。

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苦しみが、存在する。

セス・マテリアルを通じたボクの理解では、

「不自然な時に」苦しみが生まれる。

苦しいという感覚は、不自然さを告げるメッセージだ。

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私たちには、苦しむことに関する知識がある。

だから苦しくなるべき場面で苦しくなる。

逆に、楽しむことに関する知識も当然ある。

だから楽しくなるべき場面では楽しくなる。

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知識には、言語的理解を伴う知識と、無自覚的知識とがある。

無自覚的な知識を使って私たちは、感情を覚える。

感覚する。

感じ、考え、学び、行動する。

そして苦しみ、そして楽しむ。

どうやって感じ、考えているのか。

説明なんて、出来ないだろう。

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日々のあらゆる出来事の中に、楽しみと苦しみがある。

楽しいことは、自然なこと。

苦しいことは、不自然なこと。

あらゆる出来事の中に、メッセージが含まれている。

キリストからの、メッセージが含まれている。

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不自然とは、誤解があるということ。

自分を誤解している、ということ。

自然を誤解している、ということ。

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人間は自然から切り離されている。

人間と自然は、別物だ。

自然の猛威の前に、人間は無力だ。

人生は、偶然に支配されている。

人生は、制御不能だ。

人間の心には、闇がある。

無意識は、制御されるべきものだ。

感情に振り回されてはならない。

男性は、理論的である。

女性は、感情的である。

人は、勤勉であるべきだ。

物事には、善と悪とがある。

私は、無価値だ。

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いろいろな誤解がある。

根本的な誤解は、「自然」と「人間」との間に隔たりを設けて理解していること。

「人間と自然は、別物だ。」

というものだろう。

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自然とは、エネルギーだ。

自然とは、すべての存在を、心理的な存在を、物理的な存在を、可能たらしめているエネルギーだ。

私たちを在らしめているエネルギーだ。

感じ、考え、学び、行動することを可能たらしめている、変化のエネルギーだ。

エネルギーが、私たちを存在させている。

自然が、私たちを存在させている。

エネルギーの一つのあらわれとして、私たちが存在する。

自然の一つのあらわれとして、私たちが存在する。

∴ 自然の一部として、私たちがある。

また、私たちの中には、感情や感覚、思考がある。

感情や感覚、思考は、エネルギーの一つのあらわれである。

感情や感覚、思考は、自然の一つのあらわれである。

私たちの中には、自然があらわれる。

∴ 私たちの中には、自然がある。

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エネルギーは、自らをあらわす。

アイデアが、エネルギーの推進力となっている。

アイデアは、自らをあらわす。

バリュー・フルフィルメントを通じて。

そのアイデアの持つポテンシャルがフィットする時空間に、心理空間に、様々に姿かたちを変えながら、自らをあらわす。

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自然とは何か、不自然とは何か。

人の理解は様々だし、すべての理解が許されている。

その中で、誤解に気づかせてくれるメッセージとしての苦しみは、言語的な理解のあり方をものともせずに訪れる。

言語的理解を超越して、無自覚的理解に働きかけてくる。

その「自然に還れ」と教えてくれる無自覚的理解のことを、「キリスト」と呼んでいるのではないだろうか。

自分が自然な状態にあるときの、自分を誤解なく捉え、無理なく自分をあらわせているときの、歓びをもたらしてくれるはたらきのことを、私たちの能力の一部のことを、「キリスト」と呼んでいるのではないだろうか。

そして、その能力は至るところであらわれる。

「私は、至るところにある。」

キリストの伝えようとしたのは、そういうことではないだろうか。

キリストを一人物として理解しようとすると、このメッセージが謎めいたものになるけれど、誰しもに備わった能力としてみれば理解できる気がする。

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The messiah was a myth waiting for factual clothes.
メシアとは、事実という衣を待つ神話であった。

Jane Roberts, Robert Butts The Personal Sessions: Book Four of the Deleted Seth Material, Deleted Session January 23, 1978

キリストというメシアは、私たちがするあらゆる出来事に応答する。

楽しいという感情、苦しいという感情。

それらの、感情的な事実という衣を私たちにもたらして。

***

初めての経験ばかりであるはずなのに、この無自覚的理解は、すべてに応答可能である。

つまり、すべてを「知っている」のだ。

「神」のように。

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でもそれは、キリストという人格のものではない。

「キリストと自分とは、別物である。」

これは、

「自然と人間とは、別物である。」

と同じぐらい甚だしい誤解だ。

「自分の能力の一部に、キリストという能力が存在する。」

逆に、

「キリストというポテンシャルが発揮された一つのかたちとして、自分が在る。」

これらの方が、より自然なステートメントだろう。

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自分の中には、常に好ましい方向に導いてくれるメッセージをくれる、無自覚的だけど、すべてを知っている理解がある。

自分の中には、キリストがある。

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どんな苦境にあっても、進むべき道が分かる。

どんな困難だって、うまく乗り越えていける。

だからこそ、今がある。

個人として、集団として。

一人の人として、人類として。

私たち一人一人が、そうやって変化し続けている。

それは私たちが、自分の中にあるキリスト性を発揮し続けてきた結果である、とも言える。

キリストというアイデアの一つのあらわれとして、今の私たちがある、とも言える。

∴ キリストの一部として、自分が在る。

と言える。

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名前に意味はない。

何と名づけようと、そうした気づきの力に支えられている。

果てしない知識に支えられている。

その「事実」に変わりはない。

だから必ずしも「キリスト」という呼び名でなくても構わない。

「仏」でも「やおよろずの神」でも「アッラー」でも「クリシュナ」でも構わない。

「セス」であったって構わない。

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森羅万象の変化に、日々起こる出来事に、的確に反応する。

歓びの気持ちからした選択には後押しがある。

いいね!と。

恐れの気持ちからした選択には逆風が吹く。

違うよ!と。

そうした心理的な抵抗の微細な違いから、進むべき道に気づかせてくれる。

そうした知識に支えられながら、私たちは一瞬一瞬の選択をしている。

その関係性は揺るぎようがないのだ。

その「父なる神」の愛情からは逃れようがない、とさえ言える(笑)

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私たちのこの、どうしようもなく守られているという有り難い状況は、神話という壮大なドラマで描こうとしても、とても描き切れるものではないのだ。

ましてや一つの神話では。

「神話とは、人の感じるたとえようもない感謝の気持ちを、何とか表そうとした試みである」と言えるかもしれない。

だから、どの神話が正しくて、どの神話が間違っている、ということはあり得ない。

誰かの絵が正解で、誰かの絵が間違っている、ということがないのと同様に。

「ありがとう」が正しくて、「thank you」や「merci」が間違っている、ということがないのと同様に。

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あるいは見方を変えれば、私たち一人一人の人生が、壮大な神話を織りなすエピソードの一つである、と言えるかもしれない。

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私たちは、そうした壮大な知識に守られながら、変化をしている。

どこに向かって??

「Human」「Humanity」というアイデアが実現できる、より良い現実の創造に向かって。

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「ヒト」というアイデアをもってすれば、今よりさらに素晴らしい現実を創れるはずだ。

そうした欲求が、私たちの根底にずっと疼いている。

こんなものじゃないはずだ。

もっと良い形があるはずだ。

それは「ヒト」というアイデアの、ヒトが発揮できる能力のポテンシャルが、私たちを突き動かすことで生じる衝動だ。

私たちは、全人類は、その衝動で繋がっている。

時空間を超越して繋がっている。

もっと、やれるはずだよね、われわれは。

そうした理想へと向かう気持ちで、inner brotherhoodで、内なる同胞感で繋がっている。

キリストは、そこに気づかせてくれる。

***

そうした同胞感、仲間意識で繋がるために何をすべきか。

宗教的に言うならば、

内なる声を聞こう。

キリストの声を聞こう。

神の声を聞こう。

となるだろう。

もっと平たく言うならば、

自分の苦しい気持ちに気づいてあげよう。

自分の楽しい気持ちに素直になろう。

自分のポテンシャルを制限してしまうような、

不自然な思い込みに気づいて、それらを外していこう。

となるだろう。

***

世界を、人類を、大融合に導くような大きな変化は、どこか遠くで起こるのではない。

それは、技術的な変化や、社会制度の変化「から」始まるのではない。

それは、私たち一人一人が抱える不自然な思い込みを、一つ一つ丁寧に紐解いてあげた先に起こるのだ。

それは、自然と人間を分け隔てるような誤解を解いた先に起こるのだ。

そう言えるのは、心理的な変化が、物理的な変化に必ず先立つからだ。

***

次に革命のような大変革が起こるとすれば、それは決して暴力的なものではなく、雪が解け、花が開くように、優しいものであるだろう。

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