キリストのセス・マテリアル的理解
ボクは神学者ではない。
キリストに関する「専門家」ではない。
と、はじめにお断りしておく。
ここでは、セスの語る「キリスト像」と、ボクのセス・マテリアルに関する理解を踏まえた、「キリストのセス・マテリアル的理解」について書いていこうと思う。
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「キリストは、人を自然に還そうとした。」
「私は至るところにある。」
「キリストの存在は、事実に基づくものではなかった。」
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キリストとは、アイデアだ。
アイデアは、メンタルなもの。
メンタルな世界は、電気的である。
電気的であるアイデアは、電磁力を生じさせる。
キリストというアイデアは、力を生じさせる。
キリストというアイデアは、「人を自然に還そうとする」力を生じさせる。
あるいは逆に、
人を自然に還そうとする力を、私たちはキリストと呼ぶ。
そうした働きを、キリストと呼ぶ。
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苦しみが、存在する。
セス・マテリアルを通じたボクの理解では、
「不自然な時に」苦しみが生まれる。
苦しいという感覚は、不自然さを告げるメッセージだ。
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私たちには、苦しむことに関する知識がある。
だから苦しくなるべき場面で苦しくなる。
逆に、楽しむことに関する知識も当然ある。
だから楽しくなるべき場面では楽しくなる。
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知識には、言語的理解を伴う知識と、無自覚的知識とがある。
無自覚的な知識を使って私たちは、感情を覚える。
感覚する。
感じ、考え、学び、行動する。
そして苦しみ、そして楽しむ。
どうやって感じ、考えているのか。
説明なんて、出来ないだろう。
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日々のあらゆる出来事の中に、楽しみと苦しみがある。
楽しいことは、自然なこと。
苦しいことは、不自然なこと。
あらゆる出来事の中に、メッセージが含まれている。
キリストからの、メッセージが含まれている。
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不自然とは、誤解があるということ。
自分を誤解している、ということ。
自然を誤解している、ということ。
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人間は自然から切り離されている。
人間と自然は、別物だ。
自然の猛威の前に、人間は無力だ。
人生は、偶然に支配されている。
人生は、制御不能だ。
人間の心には、闇がある。
無意識は、制御されるべきものだ。
感情に振り回されてはならない。
男性は、理論的である。
女性は、感情的である。
人は、勤勉であるべきだ。
物事には、善と悪とがある。
私は、無価値だ。
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いろいろな誤解がある。
根本的な誤解は、「自然」と「人間」との間に隔たりを設けて理解していること。
「人間と自然は、別物だ。」
というものだろう。
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自然とは、エネルギーだ。
自然とは、すべての存在を、心理的な存在を、物理的な存在を、可能たらしめているエネルギーだ。
私たちを在らしめているエネルギーだ。
感じ、考え、学び、行動することを可能たらしめている、変化のエネルギーだ。
エネルギーが、私たちを存在させている。
自然が、私たちを存在させている。
エネルギーの一つのあらわれとして、私たちが存在する。
自然の一つのあらわれとして、私たちが存在する。
∴ 自然の一部として、私たちがある。
また、私たちの中には、感情や感覚、思考がある。
感情や感覚、思考は、エネルギーの一つのあらわれである。
感情や感覚、思考は、自然の一つのあらわれである。
私たちの中には、自然があらわれる。
∴ 私たちの中には、自然がある。
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エネルギーは、自らをあらわす。
アイデアが、エネルギーの推進力となっている。
アイデアは、自らをあらわす。
バリュー・フルフィルメントを通じて。
そのアイデアの持つポテンシャルがフィットする時空間に、心理空間に、様々に姿かたちを変えながら、自らをあらわす。
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自然とは何か、不自然とは何か。
人の理解は様々だし、すべての理解が許されている。
その中で、誤解に気づかせてくれるメッセージとしての苦しみは、言語的な理解のあり方をものともせずに訪れる。
言語的理解を超越して、無自覚的理解に働きかけてくる。
その「自然に還れ」と教えてくれる無自覚的理解のことを、「キリスト」と呼んでいるのではないだろうか。
自分が自然な状態にあるときの、自分を誤解なく捉え、無理なく自分をあらわせているときの、歓びをもたらしてくれるはたらきのことを、私たちの能力の一部のことを、「キリスト」と呼んでいるのではないだろうか。
そして、その能力は至るところであらわれる。
「私は、至るところにある。」
キリストの伝えようとしたのは、そういうことではないだろうか。
キリストを一人物として理解しようとすると、このメッセージが謎めいたものになるけれど、誰しもに備わった能力としてみれば理解できる気がする。
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キリストというメシアは、私たちがするあらゆる出来事に応答する。
楽しいという感情、苦しいという感情。
それらの、感情的な事実という衣を私たちにもたらして。
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初めての経験ばかりであるはずなのに、この無自覚的理解は、すべてに応答可能である。
つまり、すべてを「知っている」のだ。
「神」のように。
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でもそれは、キリストという人格のものではない。
「キリストと自分とは、別物である。」
これは、
「自然と人間とは、別物である。」
と同じぐらい甚だしい誤解だ。
「自分の能力の一部に、キリストという能力が存在する。」
逆に、
「キリストというポテンシャルが発揮された一つのかたちとして、自分が在る。」
これらの方が、より自然なステートメントだろう。
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自分の中には、常に好ましい方向に導いてくれるメッセージをくれる、無自覚的だけど、すべてを知っている理解がある。
自分の中には、キリストがある。
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どんな苦境にあっても、進むべき道が分かる。
どんな困難だって、うまく乗り越えていける。
だからこそ、今がある。
個人として、集団として。
一人の人として、人類として。
私たち一人一人が、そうやって変化し続けている。
それは私たちが、自分の中にあるキリスト性を発揮し続けてきた結果である、とも言える。
キリストというアイデアの一つのあらわれとして、今の私たちがある、とも言える。
∴ キリストの一部として、自分が在る。
と言える。
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名前に意味はない。
何と名づけようと、そうした気づきの力に支えられている。
果てしない知識に支えられている。
その「事実」に変わりはない。
だから必ずしも「キリスト」という呼び名でなくても構わない。
「仏」でも「やおよろずの神」でも「アッラー」でも「クリシュナ」でも構わない。
「セス」であったって構わない。
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森羅万象の変化に、日々起こる出来事に、的確に反応する。
歓びの気持ちからした選択には後押しがある。
いいね!と。
恐れの気持ちからした選択には逆風が吹く。
違うよ!と。
そうした心理的な抵抗の微細な違いから、進むべき道に気づかせてくれる。
そうした知識に支えられながら、私たちは一瞬一瞬の選択をしている。
その関係性は揺るぎようがないのだ。
その「父なる神」の愛情からは逃れようがない、とさえ言える(笑)
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私たちのこの、どうしようもなく守られているという有り難い状況は、神話という壮大なドラマで描こうとしても、とても描き切れるものではないのだ。
ましてや一つの神話では。
「神話とは、人の感じるたとえようもない感謝の気持ちを、何とか表そうとした試みである」と言えるかもしれない。
だから、どの神話が正しくて、どの神話が間違っている、ということはあり得ない。
誰かの絵が正解で、誰かの絵が間違っている、ということがないのと同様に。
「ありがとう」が正しくて、「thank you」や「merci」が間違っている、ということがないのと同様に。
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あるいは見方を変えれば、私たち一人一人の人生が、壮大な神話を織りなすエピソードの一つである、と言えるかもしれない。
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私たちは、そうした壮大な知識に守られながら、変化をしている。
どこに向かって??
「Human」「Humanity」というアイデアが実現できる、より良い現実の創造に向かって。
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「ヒト」というアイデアをもってすれば、今よりさらに素晴らしい現実を創れるはずだ。
そうした欲求が、私たちの根底にずっと疼いている。
こんなものじゃないはずだ。
もっと良い形があるはずだ。
それは「ヒト」というアイデアの、ヒトが発揮できる能力のポテンシャルが、私たちを突き動かすことで生じる衝動だ。
私たちは、全人類は、その衝動で繋がっている。
時空間を超越して繋がっている。
もっと、やれるはずだよね、われわれは。
そうした理想へと向かう気持ちで、inner brotherhoodで、内なる同胞感で繋がっている。
キリストは、そこに気づかせてくれる。
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そうした同胞感、仲間意識で繋がるために何をすべきか。
宗教的に言うならば、
内なる声を聞こう。
キリストの声を聞こう。
神の声を聞こう。
となるだろう。
もっと平たく言うならば、
自分の苦しい気持ちに気づいてあげよう。
自分の楽しい気持ちに素直になろう。
自分のポテンシャルを制限してしまうような、
不自然な思い込みに気づいて、それらを外していこう。
となるだろう。
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世界を、人類を、大融合に導くような大きな変化は、どこか遠くで起こるのではない。
それは、技術的な変化や、社会制度の変化「から」始まるのではない。
それは、私たち一人一人が抱える不自然な思い込みを、一つ一つ丁寧に紐解いてあげた先に起こるのだ。
それは、自然と人間を分け隔てるような誤解を解いた先に起こるのだ。
そう言えるのは、心理的な変化が、物理的な変化に必ず先立つからだ。
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次に革命のような大変革が起こるとすれば、それは決して暴力的なものではなく、雪が解け、花が開くように、優しいものであるだろう。