
科学と宗教の溶け合うところ:エネルギー
そもそも科学と宗教は分かれておらず、
他のすべてと同じように、
同じエネルギーが異なる外観を身に纏って、
違う形に見えているだけではあるけれど、
今は科学と宗教のイメージが持つ違いに焦点を当てて、別物であるかのように話を進めていきたい。
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科学と宗教。
科学は客観的で、物理的に観測可能な事実に基づいた推論をする、若干ドライに感じるもののよう。
宗教は主観的で、願いがあり、祈りがあり、心や魂といった感情的な、emotionalな要素が多分に含まれているように感じる。
科学と宗教が持つ特徴の中で大きな違いの一つは、そうした「感情的側面」にあるように感じられる。
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「科学的アプローチ」に、客観的事実に基づく推論を行おうとするそのアプローチにフォーカスを当てると、上記のステートメントは正しいように感じる。
けれども、科学の発展・発達を推し進める力に目を向けると、話はそれほどスッキリしなくなってくる。
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「真理の追求」。
科学も宗教も、真理を追求している。
私たちはなぜここにいるのか。
何を目指しているのか。
どこまでいけるのか。
そもそも、いていいのか。
科学も宗教も、「在る」ということの意味を問い続けている。
その答えを知りたいと願い続けている。
非常に感情的に。
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科学と宗教のいずれもが根底に抱える「知ろうとする気持ち」。
そうした気持ちはごく自然に湧き起こってくるけれど、
そうした気持ちはそもそもどうして湧き起こってくるのか。
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E = mc^2
物体とエネルギーは等価である。
質量を持つものはすべてエネルギーで出来ている。
すべてはエネルギーで出来ている。
すべての変化は、エネルギーに由来する。
こう書くとき、エネルギーは偶然に任せて、無感情にすべてを創り出しているように聞こえるかもしれない。
でもそれは、科学に関する観念が創り出すリアリティ。
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科学と宗教のいずれもが根底に抱える「知ろうとする気持ち」。
それは、エネルギーからくる。
以前の投稿で、すべては心理的・精神的なところから始まる、と書いた。
これは宇宙の重要な原理の一つ。
アイデアが、すべての源である。
アイデアが、無限のポテンシャルを持つ場に流れを創り出す。
変化を創り出す。
リアリティを創り出す。
アイデア同士が出会い、さらにアイデアを創り出す。
アイデアとエネルギーは等価である。
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アイデアは思いつくもののように思える。
ふっと、どこかから湧き上がってくるように思える。
けれども、偶然は存在しない。
偶然に生まれるアイデアは、存在しない。
常に、求めるから与えられる。
心が常に、先にある。
宇宙を永続的に発展・発達させるアイデア。
それは、そうしたものを求めるものに与えられる。
主観的で、感情的で、願ってやまない気持ちがあるから、そうしたアイデアが創り出される。
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常に創造され、果てしなく見えてくる、自分の新たな側面。
変化が変化を生み、アイデアがアイデアを生み、知ることが新たな経験を生み、自らを常に新しくして、終わることのない学びの機会が、歓びに満ちた驚きが永続する。
自らを知るチャレンジを乗り越えた先には、必ず新たなチャレンジが現れて、自らを知るというチャレンジを乗り越える歓びが、常に新しい経験を伴って永続する。
しかもそれが、すべての瞬間にすべての出来事においてすべての当事者に等しく与えられる。
すべての出来事が、必ずどこかで誰かの、何かの役に立つ。
そんな在り方を願う気持ち。
そうした気持ちが、永続する宇宙を生み出すアイデアを創り出す。
そうした気持ちに基づくアイデアが、創造的で、チャレンジングで、歓びに満ちた宇宙を生み出し、そうして生み出された宇宙が今も終わることなく膨張し続けている。
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エネルギーの振る舞いを、物理的に観測することで、真理を追求する科学。
「客観的」に見える物理現象が、まずそもそも感情的なアイデアが創り出すエネルギーによってもたらされている。
物理現象は、主観的で、感情的だ。
そして、科学的に真理を追求していこうとするその気持ちそのものが、ものすごく主観的で、感情的である。
その気持ちも、宇宙の森羅万象を生み出すのと同じ、感情的なアイデアに基づくエネルギーから生まれている。
そうした観点からいえば、
科学は宗教とまったく同じだけ主観的で、感情的だといえる。
科学と宗教は、真理を追求するという、自らを知ろうとするという根源的な欲求・変化のエネルギーで溶け合う。
もう少し言えば、
一見対立するように思えるすべての概念は、
自らを知ろうとする
という根源的な欲求・変化のエネルギーで、溶け合う。