「本質的に、偶然というものは存在しない。もしルバートの言葉を受け取らなかったとしたら、私の話を聞きなさい。私の言葉も受け取る必要はない。だが言葉に耳を傾けなさい。偶然は、存在しないのだ。いいかね、もし君がこれを受け容れる時、もっとも些細で矮小な、まったく重要でない偶然の可能性を受け容れる時、君はまさにパンドラの箱を開けるのだ。なぜならロジカルに考えて、一つの小さなアクシデントだけが存在するということはあり得ず、それは偶然が例外ではなくルールである宇宙が存在する、ということを意味するからだ。その宇宙の中ではそれゆえにーーそのロジックに従うならばーー君たちの意識は、原子や分子が理由や原因もなく偶発的になした塊の組合せであり、その意識はまた非存在から生まれ出たのと全く同様に、非存在へと永遠に消え去るのである。
ひとたびその偶然が存在するというアイデアを受け容れたならば君は、その考えを完全に突き詰めた場合に行き着く、人があらゆるアクシデントに翻弄されるランダムで偶発的な宇宙、30万人もの人が理由も原因もなく、ただ偶発的な出来事の気まぐれによって地球上の表面から一掃される宇宙、というアイデアを受け容れなければならなくなる、ということがわかるだろう。そしてもしそのような宇宙が、君が信じ、君の住まう宇宙であるのならば、それはまことにもって悲惨で厳しい宇宙であることだろう。そのような宇宙における個人には僅かな望みもない。なぜなら彼は、彼のランダムに創られた肉体が生まれ出た非存在へと(偶発的に)戻ってしまうからだ。その線に沿って考えをさらに進めるならば、偶発的に、原子と分子の塊は意識や歌へとスパークし、そして自らの生まれ出たカオスへと(偶発的に)還っていくだろう。さらに個人には、自分の運命に対するコントロールがない。なぜなら彼は、まったく当てにすることの出来ないランダムな運命によって、いつでも掃き去られ得るからだ。
…
頭痛がするのは単に頭痛があるからだ。ドアにぶつかったのは単にドアにぶつかったからだ。あるアクシデントに出くわすのは、たまたまある特定の時間に特定の場所にいたからだ。君たちがこのように考える時はいつでも、あるいは君たちが無力感を覚える時はいつでも、君たちは偶然というものが起こり、それらのアクシデントに対するコントロールは自分たちにはない、と考えているのである。唯一の答えは、物理的な出来事は君たち自身が創り出している、ということを認めることである。個人として、集団として。そして私が何度も何度も言っているように、君たちの知る物理的現実を、君たちが形作っているということを認めることである。」
ーーセス
嬉しいことは自分の手柄。
辛いことはまわりのせい。
そう思いたいのが人情というもの。
でもハード・ティーチャーであるセスは、そうすることを許してはくれない。
セスは私たちが大人になることを求める。
「その『まわり』を創っているのは君自身だ」
そう認めさせる。
それは、私たちを信じているから。
私たちにはそれを理解し、そのうえで自発的に、創造的に自らが望む現実を創り出せる力があることを信じてくれているからだ。
そしてセスが私たちにそれを期待するのは、セスも私たちも同じもので出来ているからだ。
「私にできて、君たちにできないという理由は存在しない」
そんなセスの言葉が聞こえてきそうだ。
偶然はただの一つも存在しない。
私に起こる出来事のすべての責任は私にある。
私に起こる出来事のすべての原因は、私の中にあり、すべて理解することができる。
一つ一つを生じさせている原因、「思い込み」、"belief system"を一つ一つ、丹念に紐解いていく。
そうすることがリアリティの本質的な理解に、自分というものの本質的な理解につながっていく、唯一の道である。
よりいっそう私らしくあるための、唯一の道である。