そのとき、自由になる
「君たちが自分に敬意を払うことを学ぶとき、君たちは自由になる。そして、花の一枚の葉の中にも意識が宿っていることに気づくとき、君たちは喜びと自然に湧き上がる気持ちとともに(現実を)創造するようになるだろう。そうして、その一枚の葉と自分とを関わりあるものとし、それに敬意を払い、小さな兄弟のように扱うとき、君たちは自由になるだろう。」ーーセス
私たちが、自分というのは無限の側面・可能性を持った、この果てしない宇宙に遍在するエネルギー・ゲシュタルトの一つの現れなんだと気づくとき、自分が在ることの有り難さが身に沁みてくる。自分の中にある「それ」に、自然と敬意を払うようになる。
その無限の可能性、能力(abilities)を一つでも多く、発揮していけたらと願うようになる。
"Something more than sum of its parts."
「部分の総和以上の何か」
このアイデアの中に含まれる、
「自分というのは今以上の何かである」という「意識」。
この意識が、果てしない宇宙を構成する、全ての存在の中に在る。
ブラックホールにも、太陽にも、地球にも、月にも、肉体にも、細胞にも、水にも、土にも、花にも、葉にも、分子にも、原子にも、量子や素粒子にもある。
思考にも、感情にも、アイデアにも、未来の自分にも、過去の自分にもある。
全てが等しく、同じものでできている。ただ、その現れ方や、役割が違う。冒険の、チャレンジの方向が異なる。
全てのチャレンジで経験される感情や感覚に、同じものは何一つなく、それぞれがオリジナルでユニーク。どちらが優れているとか、比較することなどできない。
花の葉も、一つの在り方のチャレンジ。
あなたという在り方も、一つの在り方のチャレンジ。
どこまでチャレンジするか、それはそれぞれに委ねられている。
期待はある。
でもそれは、先のアイデアから生まれる、「自分」が「自分」に抱く期待であって、自分以外の何かが、自分に対して抱く期待じゃない。
誰かの期待に応えられないから苦しいんじゃない。
「自分はもっとやれるはずだ。」
いつもそうやって、心の奥深くから溢れ出てくる、自分が持つ自分に対する期待に応えられないのが苦しいのだ。
花や葉は、ごく自然に自分らしい。
その無理のない、シンプルな在り様に癒される。励まされる。
花の一枚の葉を、小さいけれど、姿形は違えど、自分たちと同じだけ大きな宇宙的チャレンジに取り組む仲間だと、兄弟だと、自分と同じだと思えるとき、私たちは自由になれる。
世の中の、たくさんの人たちの在り方も色々とあるけれど、
すべての在り方や状態が、自分の可能性を、能力を、なし得る限りに発揮しようとする衝動と、
過去に積み重ねてきた思い込みからくる恐れとのせめぎ合いの結果なんだと、
すべてが等しい価値を持つチャレンジなんだと思えるとき、
私たちは自由になる。
色んな状態があって、終わりのないチャレンジが続くけれど、待っているのは今よりも大きなあなた、今より自由なあなたなのだから、お互い無理なく、楽しみながらチャレンジしていこうね。
善悪のジャッジなどすることなく、相手のチャレンジを絶対的なものとして、仲間として、応援する気持ちになれる。
そんな気持ちになれたとき、私たちは自由になる。