世田谷で36年の歴史を刻んだ革職人が気付かせてくれたこと
世田谷十八番創刊号の先達として登場していただいた革職人の雲野さん。
三軒茶屋・LaBorsa(ラボルサ)の店内で煙草をくゆらす雲野さんの姿が印象に残っている人も多いのでは。
かくいう私もその1人。創刊号が発行されたときは、私はまだ十八番メンバーではなく1人の読者だった。
世田谷百貨店でお茶をしているときに偶然手にした世田谷十八番の紙面。
「私がやりたかったことをすでにやってる人たちがいるー!」
世田谷十八番という媒体に対し、嫉妬にも近い感情を抱きながら、喰い入るように一気に読んだ。
そこで十八番の存在、そして雲野さんの存在を同時に知ったのだ。
正確に言うと、雲野さんのことは知らずとも、お店の存在だけは数年前から知っていた。ベイカーバウンスというお店にハンバーガーを食べに行くとき必ず前を通るから。
お店の前を通るたびに、夫と「素敵だね」「気になるね」と言葉を交わす。
ただ、敷居が高い気がして行く勇気が持てず。
『扉を開けた瞬間に、無愛想な職人さんに睨まれたら怖いしな…』
勝手にそんな妄想もしていた。
そうして数年もの間 店名すら知らないままだった。
そんな矢先に十八番を通して知った雲野さん。
紙面からでも手に取るようにわかる温かいお人柄に、今すぐにでも会ってみたい衝動に駆られた。
1週間後、居ても立ってもいられずボルサへ向かった。友人の誕生日プレゼントをどうしてもボルサで買いたくなったから。
その日は仕事があって、閉店数分前に駆け込んだ。にも関わらず、雲野さんは「時間は気にしなくて大丈夫だから」と優しく迎えてくださった。
私がボルサの扉を開けるまでの経緯や十八番のインタビュー記事が背中を押してくれたことを伝えると、それはそれは嬉しそうに笑ってくれて。
雲野さんに相談しながら、無事に誕生日プレゼントも買うことができた。
これが雲野さんと私の初めての出会い。
それから約4ヶ月が経ち、私は当時の仕事を辞めた。そして、そのタイミングでたまたま人員を募集していた世田谷十八番に携わることになったのだ。
あのとき世田谷百貨店で、世田谷十八番に、雲野さんに出会わなければ、こんなふうに十八番エディターとして記事を書くこともなかっただろうに。縁とは不思議だなぁとつくづく思う。
ボルサは十八番フレンズ(=世田谷十八番を置いて配布に協力してくださる協力店)でもある。
最新号を発行するたびにボルサへ届けるのも私の役目になった。
夫がオーダーしたリュックの行方
ボルサは間違いなく夫の好みど真ん中。私が定期的に通うようになってしばらく経った頃、夫と一緒に行った。
予想通り、雲野さんの人柄にも、雲野さんが生み出す革製品にもどハマりした。
初めて行ったその日にリュックをオーダー。
しかも、雲野さんと色違いになるお揃いのリュック。
オーダー時に、生地と糸の色を選ぶ。本体部分の革の色は20色ぐらいからセレクト。小さなサンプルなんだけど、その並びを見るだけで胸が弾む。
糸はたくさん種類があるから、同系色にするもアクセント的に真逆の色にするも自由。
夫は悩みに悩んだ挙句、元々好きなブルー系に落ち着いた。
革が決まったらイタリアから取り寄せる。最近は良質な革を確保するのにも、それを輸入するのにもかなりの時間がかかるとのこと。もちろんそれは問題ない。
それよりも、革製品を職人さんがイチから作るところなんてなかなか見られない。
だからこそ「作る過程を夫が写真に残して、私がそれを記事にしたら最高では!」と思いついた。
雲野さんにお願いして、革が届いたら連絡をもらい、作る様子を取材させてもらうことになった。
とは言ったものの、革が届かない。
1ヶ月、2ヶ月経ってもまだ。3ヶ月が経った。
その間もボルサには十八番を届けたり、ハンバーガーを食べに行ったついでに顔を出したりした。
急かしているつもりは全くなかったけど、雲野さんが私たちを見ると申し訳なさそうな表情を浮かべるようになった。だから、顔を出すのを少しだけ控えたりもした。
オーダーしてから半年ほど経った頃、雲野さんから夫に連絡がきた。
とうとう革が届いたんだー!!!
と思ったら、その文面にはこう書いてあった。
うそーーーん!
私は思わず叫んだ。
作るところも見たかったのにー!まぁこれも先達あるあるか…。
きっと雲野さんは、革が届いた瞬間から何よりも優先して夫のリュック作りを始め、最短で仕上げてくださったのだと思う。
夏の空によく映える、とても素敵なスカイブルーのリュックが完成していた。
一番の応援団は 奥様のまりこさん
雲野さんの奥様・まりこさん。世田谷十八番の活動を心から応援してくださる一番の応援団。
近所の太子堂八幡神社で暮らすウサギを1日も欠かさず毎朝夕お世話していることだけ見ても、まりこさんのお人柄が十分わかる。
私がまりこさんと初めてお会いしたのはちょうど1年前。
「やっとお会いできたわ。少しお話しましょう」
まりこさんはそう言って、ボルサの店内に椅子を出してくださった。
まりこさんが今の社会に思うこと、若者を見て感じること、世田谷十八番を応援しくてくださる理由など。たくさんたくさん聞いた。
私の思いも真っ直ぐ受け止め、とても共感してくださった。
“少し"のつもりが、気付けば2時間経っていた。
それ以来まりこさんは、私のことも何かと気にかけてくださるようになった。
十八番が出展するイベントに顔を出してくれたり、会員制のイベントに誘ってくださったり、能の鑑賞もご一緒させてもらった。
第10号に仲代さんが登場してくださったのも、まりこさんがご縁を繋いでくださったからこそ。
「世田谷十八番に仲代さんが出たら素敵だと思うんだけど、まりえさんはどう思う?」
そう言われた時は耳を疑った。
でも、何度聞き直しても“あの”仲代達矢さんだった。
その1ヶ月後には、仲代さんへのインタビューが実現した。
メディアにはそうそう出ることがないという仲代さんが、世田谷十八番という発展途上の媒体に出てくださった。その背景にあるのは、まりこさんの熱い想い、そしてまりこさんが仲代さんと長年築いた信頼関係の賜物以外、何物でもない。
つい最近、仲代さんがボルサに来て帽子をオーダーされたという。
72歳の雲野さんが作った帽子を91歳の仲代さんが被るって、かっこよすぎる。粋すぎる。
山田編集長が創りあげたこの世田谷十八番が、こうしてご縁を繋ぎながら成り立っているのは本当にすごい。
ご夫妻の決断と譲り受けた着物
そんな雲野さんご夫妻が、36年続けてきたボルサを2024年5月に閉店することにした。大分・別府へ移住することにしたのだそう。
お仕事や将来のことなど、今後2人で過ごしていくのに何が一番良いかを話し合った結果なのだと思う。
突然のことにものすごい驚きと寂しさはあったけれど、編集長をはじめとしたどのメンバーも、敢えてその感情について多くを口にしなかった。
閉店も間近に迫ったある日、まりこさんから私の元へ電話があった。
「昔着た着物があるから、よかったらもらってくれませんか?」と。
私は普段、着物を着る習慣がないので一瞬迷ったけど、せっかくの想いだから受け取りたい。
そう思うと同時に、義姉がアンティーク着物のレンタルの仕事をしていることを思い出した。
義姉はとても喜んで、状態の良いものはレンタルに使用して、あとは素敵な小物を作る作家さんに渡して活用してくれることになった。
雲野さんのリュックにしても、まりこさんの着物にしても、誰かが心を込めて作ったものや大切にしてきたものを、新しい形で大事にしていけるのはとても幸せなことだ。
まりこさんの着物がこれから様々な形で多くの人を笑顔にしてくれる。そう思うと、なんだかすごく嬉しい。
別れと旅立ち、繋いでいくもの
雲野さんは別府でも工房を続けるので、終わりとかお別れとか、そういう言葉がふさわしいかはわからない。でも、雲野さんのご夫妻にとって1つの区切りであり、旅立ちでもあることは間違いない。
だからこそ、世田谷・三軒茶屋で36年間紡がれたボルサの歴史を、形あるものとして残すことができて良かったと心から思っている。
個人的には、雲野さんと丸2年、まりこさんと丸1年の短いお付き合いではあるけれど。いつも自然体で、年が離れた私たちにも誠意と敬意を持って接してくださった。
その姿勢が見せてくれたものはとても大きかった。
世田谷十八番チームとしても、この4月にちょうど10号の発行を終え、新たな気持ちで11号をスタートさせる節目のとき。
これからも、十八番を大切に思い応援してくれた雲野ご夫妻に喜んでもらえるような誇れる活動を続けること。
それが、ご夫妻に対する恩返しの一つになればと思う。
誰かの大切な想いを受け取り、自分たちの方法で紡ぎ、次の誰かへ渡していくこと。
それがまさに生きることの喜びであり、「生きる」ということのシンプルな意味なのかもしれない。
雲野ご夫妻と過ごした時間が、私にそう気付かせてくれた。
雲野さん、まりこさん、今までありがとうございました。
末長くお元気で。
これからもずっとずっと、世田谷十八番をよろしくお願いします。
また必ずお会いしましょう。
✏️:Marie Amano
📷 : Masayuki Nakano (一部を除く)