【十八番な人 #2:倍音 白井啓介さん】「コーヒー屋になりたい」それだけを想い続けた人の話
こんにちは、天野です。
松陰神社商店街にあったコーヒー屋『倍音』
barオルガを間借りしていたこのお店は、2023年9月末に約3年間の営業を終えた。
それはもう素敵なお店で、でも何が素敵かというと一言で表現するのはなかなかに難しい。だから、私が倍音で出会った光景や店主ご本人に聴いたお話を、ここに書き残しておこうと思う。
店主は白井啓介さん、通称チップさん。
ぱっと見、孤高のコーヒー職人のようだけど、くしゃっとした笑顔とゆったりした喋り口調に癒される。
そして何より、このチップさんの手から生み出されるコーヒーはとても穏やかで美しい。
ディモンシュのコーヒー豆を使う店
私が倍音を知ったのは、コーヒー好きな夫の一言がきっかけ。
「新しくできた倍音ってお店、ヴィヴモン・ディモンシュのコーヒー豆を扱ってるみたいだよ」
ヴィヴモン・ディモンシュ(以下「ディモンシュ」)と言えば鎌倉の名店で、カフェ好きな人なら一度は耳にしたことのある名前だと思う。しかも、ちょうどその頃私は、何人かの友人から「やっぱり素敵なのはディモンシュ」「一度はディモンシュへ行くべき」などと相次いで聞いていた。そんなお店のお豆を使っているコーヒー屋ならば行くしかないと足を運んだのだった。
初めての日は、カルダモンバニララテをテイクアウトした。少し疲れていたからか、私の心身が少しの糖分とスパイスの軽やかな刺激を求めていたのだと思うけど、そのラテが妙に体に染みた。なんだかこの1杯が自分を元気にするおまじないみたいになって、その日の仕事をすごく頑張れた。
それ以来、倍音のドリンクは私のエナジードリンク的立ち位置となり、ちょくちょく足を運ぶようになった。
夫は夫で、倍音でディモンシュのコーヒー豆を買ってきては、家で淹れてくれるようになった。
美味しいコーヒーとは何なのか
『倍音』に関しては「今まで飲んだラテの中で一番おいしい」「自分至上最高のコーヒー」などと書かれた口コミや感想によく出会う。
でも、コーヒーほど個人の好みが分かれるもの、それゆえ『おいしい』の基準が曖昧なものも珍しいと思う。それなのに、なぜこんなにも皆の心を捉えるのか。
これは私の持論だけど、きっとチップさんは無意識にお客様に合わせて味を変えている。
完全一人営業のチップさんは、オーダーを受けるのもお会計をするのも、ドリンクや食事を作るのも、提供するのも全部自分。だからこそ、そのお客様の『今』の状態を自然と感じ取って、その人に合わせたドリンクを淹れているのだと思う。
これについて聞いたところ「お客様一人ひとりに対して味を調整している意識はないけれど」と言いながらこう答えてくれた。
「お客様が来店した時点でその人のことをなんとなく感じ取って、その人に対していつも全力で、その時の自分ができるベストなコーヒーを出していることは確かです」
なるほど、それが答えだ。チップさんが毎回一人一人と真剣に向き合った結果、その人にとっての最高の一杯が生まれる。それが『今までで一番』とか『自分至上最高』という感想へつながっているのだ。
この答え合わせが出来ただけでも、今回チップさんにお話を聴けてよかったと心底思った。
あの日の私を励ましてくれたカルダモンバニララテも、私の奥にある“何か”をチップさんが感じ取って寄り添いながら淹れてくれたものだと思うと、今でも頑張る気持ちが湧いてくる。
「コーヒーを淹れることは全く疲れないんです。どれだけ体力的な疲れを感じていても、あぁもう淹れたくないという気持ちになったことは一度もないんですよ。」
人にもコーヒーにも誠実なチップさんの性格がよくわかる言葉で、とても印象的だった。
自分が淹れるコーヒーの正体
こうして、皆の心にじわじわと温かさをもたらしていた倍音のコーヒー。そんな倍音の閉店がインスタでアナウンスされてから、常連と思われる方々とチップさんのやり取りを何度か見た。多くを語らずとも、ドリンクを差し出す際の丁寧な仕草や、その時に交わる視線や短い会話から、チップさんがこの場所でどれほど素敵な時間を紡いできたのかが透けて見えるようだった。
チップさんは、この3年間をとにかく人との出会いに恵まれた時間だったと振り返る。
「自分の出しているコーヒーのことは自分が一番わかっていないかもしれない。でも、それを喜んでくださるお客様がいることが自信になったし、自分のコーヒーを届ける上で何よりも欠かせない要素でした」そう語るチップさんの顔は、充実感に溢れていた。
来てくださるお客様の感性や感度の素晴らしさに驚きっぱなしの3年間だったという。
「倍音の営業を終えた今でも、自分の出すコーヒーの正体はわからなかったし、これからもそれを考えながらコーヒーを淹れるのだと思う」チップさんはそう言うけれど。ひょっとしたらその正体は、彼がコーヒーを好きなこと、それ以上に人を好きなこと、だったのかなと私は思う。
コーヒー屋になりたいと想い続けた
倍音の営業が終わる数日前。カウンターには、ディモンシュから仕入れた大量の珈琲豆の袋が置かれていた。そしてそこには、ディモンシュの方々から溢れんばかりの愛のメッセージが書かれていた。
「あれだけ認知されている有名店でカフェとしても最高峰の1つだと思うけど、こんなふうに個人に寄り添って、愛のこもったことができるのが奇跡ですよね」
チップさんがそう言うとおり、言ってしまえば一つの取引先に過ぎない店舗にここまでの心遣いをしていることに感動すら覚える。ますますディモンシュへ行ってみたくなった。
実はこのヴィヴモン・ディモンシュ。チップさんがコーヒー屋になりたいと思った、まさにきっかけのお店でもある。20才そこそこのチップ青年は、ディモンシュのマスター堀内さんが書いた本を読んで「コーヒーを通して人を笑顔にする人生を歩んでみたい」と強く思ったのだそう。
それからずっと「コーヒー屋になりたい」ただそれだけを思って生きてきた。
チップさんの言葉を借りると「ほとんど何も上手くいかない、ブレてばかりの人生」だったけれど、「コーヒー屋になりたい」気持ちだけは変わらなかった。
ディモンシュとの出会いが、チップさんをコーヒーの道へといざない、自分のお店でそのお豆を使って多くの人の琴線に触れるドリンクを供することになる。
「今までもこれからも、自分のお店でコーヒーを淹れるならディモンシュのお豆一択です」いつも柔らかい物言いのチップさんが明確に言い切る姿は、永遠の憧れであるディモンシュを今やそれだけでは終わらせない、強い使命感みたいなものも感じてとてもかっこよかった。
ハタチの自分に伝えたい
ディモンシュのオーナーご夫妻やスタッフの方々が、倍音まで足を運びコーヒーを飲んでくださったこともある。
チップさんにとって、それはとても嬉しい出来事だったという。
倍音の営業を終えてすぐにチップさんもディモンシュへ出向き、そこで改めて今までのお礼を伝えた。
「その時に、自分とディモンシュとの物語に一区切りつけることができた気がする」チップさんはそう語る。
本を読んだ20才の頃なんてまだまだ若いし、今考えると思い込みみたいな部分も大きかったかもしれないけど・・・
「それでも、あの頃の自分、思い込んでくれてありがとう」そう言うチップさんの笑顔は清々しかった。
20才で始まった物語が、10数年経ってこうした幕引きを迎えるなんて。
こんなに美しいストーリーってあるのだろうか。
『ディモンシュのお豆を使っている』という間口で倍音の門をたたいた夫や私、他の多くのお客様たちも、知らず知らずのうちにこの壮大なストーリーに触れさせてもらっていたのかと思うと感慨深い。
それでも、この物語はまだ序章や第一章といったところ。きっとこれからも、想像がつかないような展開をしながら続いていく。
奥様とともに福岡へ戻ったチップさん、先のことはまだ何も決めていないと言う。
でも、これからも多くの人に出会い、たくさんの奇跡と喜びが詰まったコーヒーを淹れている。
そんな未来だけは私にも見える。
「接客業には お客様と両思いになれる瞬間がある。それって特別ですよね」
そう表現するチップさんは、まだまだコーヒーを通じてたくさんの人と心を通わせていくのだろう。
[撮影 : Masayuki Nakano]