会社労働の忌まわしさを言語化する
労働が肌に合わないという人はたくさんいる。自身もその一派であるが、では労働の何が合わないのか。子供が欲しくない理由と同じで、困難や疑問は細分化することで少しは軽減されるかもしれない。そんな希望から、今回は労働の何が嫌なのかを分解していく。
1.労働の嫌な点
言葉を選ばずに私が労働の嫌なところを書いていく。
(1)対面主義
書面で済ませられる会議を対面で実施することが苦痛だ。声が大きな人間が得をするだけの「対面主義」。口下手で、言葉を話す際に数秒考えてしまう私のような人間はベラベラと捲し立てられるように話されるのが苦手なので、とても苦痛に感じてしまう。とにかく「対面」の意味がないのに「対面」を重視する。さっきメール送りましたと電話する老人、IQ1でも判断できるような失礼なセクハラ発言をするジジイ、一体どうやって成人まで生物個体として生存したのだろうと思うほどに、「声を出す個体」が生み出す害悪が半端じゃないと感じるのがこの10年だった。
(2)電話
若者が電話恐怖症だと叩かれているが、100%若者の気持ちがわかる。この時代に相手の時間を止めて電話をしてくる人にロクな人はいない。断言できないが、割合的に少ない。明らかにヤバい奴が多い。無理難題、カスハラ、感情的な物言い、言語が使えないから意味不明な言葉でワーワー騒いでいるだけの老人でも、電話を切ることはできない。苦痛の極みだと思う。そう分かっているのに電話を廃止しない経営者。
年功序列で年少者が電話応対しなければならない無意味さ。30の私が25の若者の代わりに全部電話を取ったら、電話は若者に取らせるようにと文句を言われる。くだらない。番号を暗記してどこからかかってきているかわかるのに、わざわざ自分宛ての電話を用もない他人を経由して取り次ぐ。この上なく馬鹿、淘汰されるべき考え方だと思う。
(3)過剰なこだわり(固執)
経営者でもないのに自分がコントロール権を有していることにただならぬ満足感を持っている人がいる。「〇〇はこうやるべきだ」というマイルールをどんどん作り出し、そうできない人を徹底的に否定する。毒親のように相手の挙動を全部否定するやり方、40台の中堅社員に本当に多い。他の世代よりも有意に多い。さらに、特に私が在籍しているような比較的ゆるい会社(経験2社)で約40名を抽出すると、「ゆとり以上氷河期未満」「総合職」「女性」に多い。普通に与えられたことを90点程度でこなすような、いつもニコニコしている無害な社員を徹底的にいじめ抜き、せっかく無害な人間が職場を去り続ける。ただし、これは男性社会がそうさせたと思って間違いなさそうだ。
この傾向を元公務員の妻に話したところ、女性が対等に戦えるようになったのはこの20年弱のことなので、強くなければならないから、生き残った人たちは、どうしても言動や主義主張が強いタイプの人になる、だからその行為自体が悪いとは言わないけれど、仕方ない傾向だと思う…とのこと。その上の50台体育会系バブル世代男性社会とこの中堅世代はとても相性が良く、ホワイト企業なのに過剰な内部忖度や仕事のための仕事が増幅されて、瞬く間に人が辞めていく。
(4)効果測定
研修や社内啓発など、いわゆる「仕事やってます感」を出す業務は、決まってその検証をしないし、無駄だと分かっているのに「廃止」できない業務があまりにも多い。前例しか参考にしないのに一度はオリジナル案を作成させ、それをオリジナルすぎるから前例踏襲に戻させることを「指導」という。去年の○月○日に「来年は〇〇したいですね」と言っていた上司が、その時期になるとその発言を覆し「例年通り〇〇で」なんて言ってしまう。
(5)他人に自分の世話をさせたい心理
部下は上司の出張旅費を起案して決裁を受け、旅券を手配するというルールがどの職場にもあったりする。自分の新幹線のチケットさえ自分で取らない大人がなぜ社会で働いているのだろうか。業務外の居酒屋の予約も年次が低い人間が暗黙で担当させられる。くだらない。まるで数十年後の介護を先取りしているかのようだ。
自分のことは全部自分だけでやる、絶対に他人にさせないという主義を叩き込めば、介護問題も少しは解決するんじゃないかと思うが、どうだろうか。歳を取れば取るほど手足を動かさず口だけ動かす人が増える。SNSのコメントも、年寄りの実名コメントで物凄い失礼なコメントやタメ口、命令口調のリクエストがくる。
使役欲求の暴走と、それに応じてしまう命令を受ける層に全責任があると思う。昨今は自分の同僚・同世代の人間が中堅になって若手に同じことをさせていて寒気がする。
(6)なんでも否定する被害妄想主義
完璧主義に傾倒する日本人の働き方は、起こりもしない災難を想定して先回りして行動することが100点満点とされる。「上司からこんなことを言われるかもしれないから、あらかじめこの点を備考欄に」という作業が無限に生じているし、それが残業代を大量に発生させている。「怒られたら直せば良くないか?」と思う私には全く理解できない感覚である。
「〇〇しないと〇〇さんが怒るから」とか「〇〇さんはこれにうるさいから」というのは、一見その人への忖度に見えるが、相手が言ってもいないことを勝手に被害発生前提で議論していて、他人の仮想悪意を意図的に作り出していることになるから、それこそ失礼ではないだろうかと思う。
予想外の反応が来たら、そのときに考えればいいだけの話であり、それを楽しまないなら人間と人間が関わる意味なんてないと思う。何も質問が出ない会議を好む人にはこの気持ちは理解できないかもしれない。
2.この苦痛はなぜ生じるのか
1章で書いたそれぞれについて、なぜ生じるのかを考える。
(1)会社に所属しているから
(2)古い体質の組織に所属していること、在宅勤務ができていないから
(3)後述
(4)利益を過剰に追求する環境じゃないから
(5)儒教を重んじる社会だから(勝手な想像)
(6)日本だから
ここで考えたいのが(3)についてである。仕事にこだわりがでる場面というのは、いわゆる企画やマネジメントの領域にある部門におけるものであることが多い。つまりそれは「総合職」で起こり得る可能性が高いものだというのが、10年労働してきた私の中間結論である。上述した「こだわり固執系モラハラ社員」はすべて総合職の人物である。一般職で仕事に執着している人はいない。趣味・余暇・家庭など、第一にするものがあり、目的を果たせればあとは何でもいいと考える人ばかりである。
実際に、私が直面するこれら「面倒くさいこと」も、総合職から一般職に移行すればすべて解消される。中途半端な対価と裁量権と責任感と自己実現欲求・承認欲求のシンクロに肥大化した自尊心が掛け合わさって、理想と現実のギャップが他人への当たり散らしになっていく。
学校時代の文化祭実行委員が「もっとしっかりやってよ!」と、一般学生に罵声を浴びせている場面を想像できる人は少なくないだろう。これを何歳になっても卒業できない人たちのたまり場が「事務系総合職」なのかもしれない。自分がエネルギーをぶつける相手を、彼らは常に探している。
3.理系なら違ったのか
1(3)について掘り下げる必要がありそうだ。複雑な人間関係やイデオロギーの調整に暮れるのが事務職の会社人生だとしたら、技術職はどうだろう。理系だったらどうだろう。
英語・数学・物理・化学の理系4科目で大学の文系学科に進学した「進路設計敗北型イレギュラー」の私や、同じ境遇を辿った人にとって、時々話題になるのがこの疑問。「あーこんなことなら技術系に、理工系に、手に職を!としておけばよかったー」なんて、飲みながら盛り上がることが時々ある。
理系から文系に安易に転向したことを後悔する声は、事務系でHSP気質ゆえ苦しんでいる人の中には多い。黙々と専門のものに取り組んでいられたらもっと楽だったのになあと思うこともあった。けれども、最近になり、それは幻想だったし、結局はそうじゃないとわかったことがあった。
高校の友人の結婚式に呼ばれたときだ。同級生が4人集まった。私以外は全員、自分自身の目標学科に進学し、大学院を修了し、人気の大手メーカーに就職していた。私だけが「成功しなかったやつ」という扱いを受けるような感じである。しかし、彼らは大企業技術職に落ち着いたことと引き換えに、全国転勤と比較的ハードな労働を強いられていた。そして、技術職だからといってずっと手を動かして実験や作業をしているのではなく、チームを纏めたり上席やグループ企業のプロジェクト連携先と折衝することも多いとのことだった。
私は頭が悪いので、技術職はずっと職人のように手を動かしていられるものだと思っていたけれど、実際には、院卒技術職だって事務屋の仕事がそれなりに多い。組織で立場が上がっていけば行くほどその傾向は強まる。結局、人間関係の泥沼から逃げることは完全にはできていない。そう考えると、事務職で窓際SEをやっている方がマシなのではないかと思えてきたのだ。在宅勤務も可能で、7時間労働で、年収数百万もいらない。子供がいないのだから金はそこそこあればいい。
彼らは必死で私よりも自分たちが上だとアピールするが、肩書と引き換えに失っているものが多すぎると感じた。失礼極まりない話だが、早い話が「羨ましい」とはまったく思わなかったのだ。私が幸福なのは、第一に、妻がいてくれるのもあるが、自分の方が圧倒的に幸福だと思った。
理系だからずっと技術だけやってればいいというのは幻想だったとわかる。というか、そんなこともわからないのが私なのだ。となれば「職種」が「専門性特化」に直結するのは、医療系ほか、極僅かな職業だけなのかもしれないと考える。では一体、自分たちをここまで縛り付けるものはなんだろう。自由気ままに気楽に、普通のことを普通にやって退社できないのはなぜだろう。やはり1(3)に書いた問いかけを続けるしかなさそうだ。
4.なぜ自分は1(3)「過剰なこだわり労働者」になれないのか
これには理由が3点あると考えている。
(1)帰属意識や相対的評価への無頓着性
幼少期から組織の一員として振る舞うことが嫌いだった。評価や地位に誇りを感じることも嫌いだった。みんなで運動会で勝利することも嫌いだった。体育の授業や社会科のフィールドワークで、勝ち負けを競うのも嫌いだった。そんなことをするのなら、黙々と数学の問題を解いている方が良いとさえ思ったし、線路や道路の図面をノートに書いている方が好きだった。こう考えると、3章に書いたように、理系に進んでもチームで仕事することやチームに貢献することで達成感を醸成するようなことができず、浮いていたかもしれない。
だからよかったんだという振り出しの結論になるが、結局は評価や所属意識の希薄さが労働不適合を起こしているのだと思う。日本では極当たり前のことなのだが、「俺は数年後は課長で…」とニヤついている職場の上司の得意げな顔を見て、こいつ生きてて他に楽しいことないのかな、心底気の毒な人間だ、不幸な人間だとさえ思ってしまうし、若年者でも大手企業に自分が所属していることや学歴マウントを取っている人がいて、この時代にそういう人がいるのかと驚くこともある。それが社会のスタンダードなのだとしたら、私はおそらく労働社会には永遠に馴染むことがないだろう。価値を感じないから、需要以上のこと、自己満足的なことは一切できないからである。
こだわり属性の人たちが理想とする社会や組織を構築することに、私は一切興味を持っていない。東京五輪のメダルで一喜一憂したり誇りだと得意げになっていたりするのを、赤の他人の実績であり自分とは無関係なのになぜ盛り上がっているのだろうかと眺めているのが私なのである。
(2)これらに割く時間財産の少なさ
やりたいことが多すぎる私は、孤独な状態でも何日も黙々と作業できるほどに、やりたいことに追われている。死ぬまでにやりたいことリストを30歳のときに作ってどんどんやっているけれど、一向に終わらない。
だから、私的領域を超えた公共の場面における「こだわり」を持てないのだろうと考えている。自分の敷地内の整備で精一杯で、公共空間・共同利用施設の整備や管理、運営に手が回らないような感覚だろうか。
(3)否定アレルギー
何かを否定する言動が極めて苦手だと何度も書いている通り、私は「否定」「批判」「完璧主義」「減点主義」が苦手で、そこまでして「完成度の高い」ものを求めていない。それが日本の労働文化に合わない最大の要因だと思っている。忖度や先回りをして1点の減点もされないような完成品を作るために、神経をすり減らし、イライラし、視野を狭め、胃がキリキリするほどに心配し、他人に強く当たり、家庭に負の感情を持ち込みたくない。そうであれば、いい加減な仕事をしている方が良いとさえ思う。
私は、完璧に仕事ができて性格が悪い人よりも、自分が迷惑するほど仕事ができないけれど穏やかな性格の人と働きたい。けれど、多くの人は後者への非難を繰り返し、前者に追従することを選択する。
5.嫌な労働/労働の嫌な面から逃げるためにはどうすればいいか
個人で嫌な部分が異なる以上、画一的な解決策がないと思われるが、私個人で言えば、少なくとも、正規労働者(非正規雇用が本格導入されて以降の正規労働者)の仕事と相性が悪いことがわかる。
報酬もたいしたことないのに、報酬分働くのではなく「総合職/正規なんだからそうじゃない人よりもたくさん働いて当然」という、雇用契約ではなく空気が決定する達成水準にさらされていると感じる。だから本来は上司が指示決定するべきところを自分自身で設計して調整するようなことをさせられても誰も違和感を唱えないような労働現場にいる。
正規労働と決別するためにはどうしたらいいだろうか。正規労働を私に強いているものは何か。恥や体裁を捨てて書いてみる。
(1)お金
労働しないと金を獲得できないという社会構造も含む金の問題。金がないから働き、生計が途絶えると困るから働くというのがシンプルな答えだろうか。しかし、それでは「じゃあ貯金がある人はこれに該当しないんじゃないか」となってしまう。たとえば私は毎年200万円ずつ貯金して10年経過して2000万円の貯金があるけれど、労働している。金があるじゃないか、と思われても、その金を費やしてゼロにできない事情があるから働いている。これでは貯金している意味がないことも分かっているのだ。
なぜなら、貯金が活きるのは「働かない期間」だからである。働いているのであれば貯金を崩すこともないからである。この理屈だと、死ぬまで働くことになってしまう。本来は「全く違うことで生活できるようにするための環境変化のために働かない期間を設けるための貯金」であるはずなのだ。
じゃあいつになったらそれができるのかについて、明確な答えを出さなければならない。別のことを始めるためにはまとまった期間が必要で、ずっと労働していては、何もできないからである。それは、労働と決別した妻がこの3年間で生み出した革命を見れば明らかだ。労働からの解放は人間を人間に戻してくれる。幼稚園から続く奴隷的拘束に終止符を打つために、これが必要だ。
(2)親族
親族は妻の次に身近な存在であり、大切な存在であることは変わらない。ただし、わかりあえない存在であるとも思っている。昭和OSを積んだ大人たちは、たとえば次のことを実感として理解していない。
この国がこれからスケールダウンしていくこと
ドメスティックな考え方ではやっていけなくなること
普通に働いて普通に安定した生活を送ることが難しい社会になること
消費することが幸福であるという常識が崩れていること
人生は義務の消化だけではないという価値観が強まっていること
こういう考えがないからこそ「自分たちと同じように生きていけば間違いない」ととらえ、子供は絶対に作ったほうがいい、正社員で安定して働き年金を貰ったほうがいい、老後の心配をした方がいい、となるのだろう。心配がそんなにあるのなら子供を産まなきゃよかったのに、という考えは通用しない。あくまでも、我慢してでも義務が中心でも、生きることが正しく、それで子孫反映を続けていくことが正しいと信じている人たちなのだ。
この人たちが子供に望むのは自分たちの人生の複写であり、どんなに愛情を注いでくれてもそれは変わらない。そしてそれは私が望む人生ではない。学校、会社、家庭と成功するフリを見せて安心させるのか、自分とは何者なのかを、死ぬまで説明し続けるか、反対や批判を聞き流してほどよい距離感で関わり続けるのか、どれがよいのかはわからない。
大人達は自分の見たいもの以外は「悪いもの」として切り捨てる傾向があり、だからこそ、大衆社会は肥大化したのだとも思う。この人たちにとって、子供が同じように会社労働に追従することは安心そのものである。
仮に会社を辞めて何かに転向するにしても、普通に安定収入型労働をしているという夢を見続けてもらった方が良いのかとも考える。特に「正社員神話」の強い人の価値観を変えることは難しい。昭和型思考を持っているけれど、絶縁するわけにはならない人たちと、どういう人生選択をしたら無理なく付き合い続けられるか、それを考える必要もあるだろう。
6.DINKsとしてできること
子供がいない夫婦にとって、できることはなんだろう。自分たちの幸福のために毎日やれることはないだろうか。あったらその日から始める。そんな姿勢で生きている。
(1)夫婦どちらかは労働しない
この数年間でこの選択がもたらした副産物の総数は計り知れない。平日に自由に動けることが文化資本をいかに増大させるか、労働者には一生理解できないだろうというくらいに、革命的な変化をもたらしている。
わたしたちは無駄なことに時間を使いすぎている。他人よりも少しでも金を多く獲得するために、少しでも金を無駄にしないために、すべては金のため、金を消費して相対的幸福に充足感を覚えることしかできない生命体。そうなってしまったら、今すぐ首を吊って死ぬのと同じだ。
これまでの人生でも、自分なら、今すぐ死んでもあと50年生きても変わらないだろうなという人生観を持っている人を無数に見てきた。それを強制されて自ら人生を終わらせた人物もいた。
妻にはそうなってほしくないし、労働に束縛されない妻が「人間として生きている」からこそ、パートナーである私も人間であり続けたいと願えるのだ。私にとって不本意労働に苛まれないことは、人類が人類であるための始発駅なのである。
(2)金を求めすぎない、金に依存しない、金はあると意識する
何でもかんでも金、金、金…そう唱えると人は不幸になると思う。金がどんな実体を生み出しているのかを考えずに金を追いかけると、金に振り回される人生になる。
ストレスを買い物で解消するならストレスを削減する努力をした方が良いし、自棄酒を飲んで長時間働くなら、定時で退社して酒をやめたほうがいい。金がないから無限に労働する、老後が心配だから労働する、子供がいないから老後は金がいる…そうやって金さえあれば絶対安心という神話が生まれるのはなぜなのだろうか。
金があって幸福ならば、世の中の平均収入より高い人達が不幸そうに満員電車に乗るはずがない。金と引き換えに未来永劫回復しない精神の病を背負わされている自覚を持つことが本当に必要だと思う。
(3)歩んできた道を常に疑う
経験したものは正しいと誤解しやすいのが人間で、自分がこれまで受けてきた教育や会社常識、時代感覚は常に更新されて古くなっていくことを自覚することが重要だ。30過ぎて急に老害になる人が相次ぐ中、これは本当に大事だと思う。
自分が死ぬときには自分より若い人間が主役であり、この人たちを蔑ろにして権威を振りかざしていると、古株が死去した世界で完全に孤立する。年齢が物を言う価値観が急速に解体されつつある現在、これからはさらにその傾向が強まりそうだが、若者を蔑ろにする人間が払う代償は大きい。
(4)人と出会う
少数派の価値観を持っている人たちが出会う場面は少ない。ここに書いたことを現実世界で話したところで、ゼロとはいわないが、100人中1人が話を聞こうとしてくれる程度だろう。なぜなら、そうやって我慢することが人間の役割だと思っている人達がいるおかげで、バブル崩壊後も高度成長のゾンビ行進が続いているからだ。マウンティングと序列意識の顕在化に終始し、既成概念を追従することに夢中になる人は多い。
自分の価値観がマイナーだと意識する人はなかなかそれを表出しないから、出会いにくい。だからこそ、自分はこういう「自身の異常性」をいろいろなところで出して、同じような悩みや経験を持つ人が何を考えているのかを知りたい。Noteとの出会いは本当にありがたく、もともと文字が好きなので、思考の整理・言語化は続けていきたいと思う。
(5)日本の外も見る
日本の労働文化が自分を苦しめているとすれば、そうじゃない文化圏の人とは面白い話ができるかもしれない。哲学的に何かを考えたり、金こそすべて観から立ち止まって、距離をおいて思考を巡らすことができるかもしれない。だから英語を続けている。言語の壁は間違いなく私が越えるべきものだと思っている。
7.結局何をすべきなのか
上記のことを頭に常に浮かべておくことで、目先のことに執着したり自分を見失わないようにしたい。そして、必ずこの構造に埋没しない人生を獲得すると、日々再認識することが重要であると思う。
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