スシロー事件をDINKsの視点で考える
この事件はそもそも何なのかと考えると、DINKsという選択をしてよかった面があると感じたので、メモ書き程度に残しておこうと思う。
1.なぜ起こるのかを考える
未成年が犯行主体となりやすいこの手の事件、なぜ晒し上げにされたり社会問題になっているのに、似たような事件が相次ぐのか。考えられることを並べてみる。
①未成年だから何でも許されると勘違いしているパターン
②判断基準がグレーだが、SNSで注目されたいからやってしまうパターン
③群集心理でやってしまうパターン
こんな感じだろうか。①や③は属性上、一定数こういう人間が発生するのも仕方がない(やっていいというわけでは決してないが、多産社会がどの階層にいるかを考えると、防止することは難しいという意味)が、②が非常に厄介だと思う。
私はSNSは自分自身の趣味の記録としてしかやっていないので、現実世界の人間関係と切り離しているけれど、そうじゃないSNSの使い方がかなり一般的になってきているし、そこで人気者になったり、周りに相手にされることを求める人は多い。承認欲求のようなものが、特に未成年のSNS利用において、蔓延しているのかなと思っている。
だとすれば、相次ぐ強盗事件のように、リスクを承知でもリターン欲しさにこうした営業妨害や犯罪行為を、動画撮影のために強行する未成年あるいは若者は減らないんじゃないかと思う。
この②に、自分たちの特権を自覚した①が動機として付加されると、保護された無敵の人が完成し、未成年だと「この子の未来が大切だ」などと擁護する声も一定数出てくるので、「やったもん勝ち」の状態が淘汰されずに根強く幅を利かせ続けてしまう。
2.それとDINKsに何の関係があるのか
いつも通りの結末になるが、子供の世界がこうした「承認欲求のためならなんでもする」「未成年だから何をやってもいい」「リスクは怖くない」などの価値観で構成され続ける限り、社会妨害行動は減らないし、行動がエスカレートする可能性も否定できない。これからの「子供」社会は、もしかしたらこれがスタンダードになっていくのかもしれない。
そう考えると、自分の子供が仮にいたとして、学校という集団生活でこの波に吞み込まれたり潰されずにやっていけるか、育児・教育の世界で、子供・未成年という存在にかかわることで、自身もこうした事件に巻き込まれたり、近くで嫌な思いや危険な経験をしてしまう可能性が強まるのではないか、と危惧する気持ちが顕著になる。
子供を持つ社会階層が二極化していることが指摘されるように、ますます公立学校やファミレス、レジャー施設などが荒れていく中で、安全に子育てできる環境、もっとワガママな言い方をすれば、自分が嫌な経験をせずに子育てできる環境というのが、私にとっては皆無だろうから、やはり子供を持たないで正解だと心底思う結果になる。
住んでいる場所の性質上、今は、学生の群れや悪事を実行する未成年と遭遇することも見かけることもない。ファミレスに未成年やファミリーが集まる場所に近づいたり出入りすることも一切ないし、こうした施設を避けても生活できるだけの貯蓄があるから、未成年版特権階級の世界とは、関わらない選択権を持てている。けれども、そうじゃなくなったときに、不衛生な醤油差しや皿で食事をしなければならない人生を想像しただけでゾッとする。
子供がいれば今の場所には住めないだろうし、学校に通わせればそういう価値観が当たり前、犯罪行為が当たり前の子供と直接的・間接的に関わることもあるだろう。そう考えると、もはや「未成年」「子供」とはできるだけ距離を置こうと思ってしまうのだ。電車の中でも、群れて大きな声で騒いだり、人の悪口で盛り上がる「未成年」「子供」を見かけ、なんとなくそれを怖がり、避けている自分自身に気づく。
そもそも相性が悪いのだろうと思う、発散することを快楽と学習している人間と関わること自体が。
スーパーのお寿司や正当な対価を払って食べるお寿司を、妻と二人で楽しむのが、一番シンプルで幸せだと思っている。