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子なしの原点の一つは大学受験かもしれない
ネットの記事で「中学受験で不合格になった子供を叱責する母親」についての記事があり、色々と考えさせられます。競争社会で子供が成功することを期待するあまり、子供に教育虐待をしてしまう親も多いのでしょうね。なぜ人間が地位や名誉にしがみつくのか、そんな根本的な疑問さえも、子供のお受験に苛立つ人々の中には生じないのでしょう。受験競争、就職競争、労働競争…死ぬまで競争ですか。お気の毒に。
というのは余談で、大学入試共通テストが話題になると、自身の人生の転換点である大学受験を思い出します。私にとって大学受験は、自分自身が身の程知らずであることを学んだこと、身の丈にあった生き方をすることを知るきっかけをくれた経験でした。恐らく私の今の性格の始まりはこの18歳のイベントに根ざしたものと言えるでしょう。
1.共通テストとはどんな試験か
共通テストの前身である大学入試センター試験を私は受験しました。センター試験や大学受験について知らない人のために簡単に試験の仕組みをご紹介します。
(1)全員が同じ試験を受験するわけではない
受験というと生まれ育った環境によって異なる認識を持つ印象を受けます。たとえば、高校受験が最も注目される試験である文化が根強い地方などの場合、受験イコール一斉学力試験のようなイメージが支配的になります。だから「偏差値〇〇」みたいなのは、単純に成績を上から順番に全員並べているから、偏差値を見れば学力が判定できるという具合に解釈されます。
クイズ番組で「〇〇大学出身(偏差値〇〇)」という表記を鵜呑みにしてしまう人がいるのもこれが一つの原因でしょう。高校の偏差値と大学の偏差値を比べている人が少なくないのもそれです。統計学的に学力指標を見ることを現場の教員もできていなかったりします。
全員が同じ試験を受けるというのは高校までの基本形であり、大学受験は殆どがそうではありません。受験する大学や学科系統により、課される試験科目が違います。これ、多くの人が理解できていません。例を見てみましょう。
A.大学独自の試験で課される科目(例外あり)
理系|英語+数学+理科(1科目または2科目)
文系|英語+国語+地歴公民または数学
これが基本です。私立も国公立も個別試験はこれが基本です。次に試験の方法を見ていきましょう。
B.独自試験以外に課される試験(例外あり)
国公立大学|大学入試共通テスト
私立大学(一般入試)|なし
私立大学(大学入試共通テスト利用方式)|大学入試共通テスト
C.共通テストが課される場合の科目の基本パターン(例外多々あり)
国公立大学理系|8科目<英、数、数、国、理、理、社、情>
国公立大学文系|8科目<英、数、数、国、理、社、社、情>
私立大学理系|大学が指定する科目を受験(英、数、数、理が多い)
私立大学文系|大学が指定する科目を受験(英、国、社が多い)
英…英語、数…数学、国…国語、理…理科、社…地歴・公民、情…情報
同じものが2個あるのは数1A,2Bの組合せ、理科2科目選択など
英語と国語は200点満点、数学と理科と社会と情報は1科目100点満点。
このように、大学により受験する科目が異なるので、学力を比較できるのは同じ科目セットで受験する人間同士だけなのです。
別の視点で見れば、オールラウンド型の優等生でなくても、レベルの高い大学を目指すことが可能なのが大学受験です。文系なのに数学ができないから難関大学には行けないなどと考えるのは本当に勿体ないですが、特に地方の場合は、大学入試が高校入試のように総合学力を求めるものであり、学校の通知表がオール5のような優等生じゃないと難関大学に行けないと保護者や教員も含めて勘違いしているケースが物凄い多いです。
多くの人が「入学するのが難しい」と言う慶應でさえ、英語または数学または情報の1科目で入学できる学科があるのです。そして他学部の入試科目も見ていただきたいですが、殆どが英語ともう一つの科目だけです。一つの苦手も許容しない優等生である必要があるでしょうか。
(2)共通テストは減点方式、ブレる
センター試験から続く共通テスト、これはマークシート式という、正解の番号を塗りつぶす方式の試験です。数学や理科の一部以外は択一式、数学と理科の一部は計算結果の数字を塗りつぶす方式です。多肢選択式は正解の選択肢を選ぶ問題です。
つまり「引掛け選択肢」を選ばないように頑張る試験、これが共通テストの基本です。共通テストは教科書を勉強していれば正解できるという建前があり、文字通りそうであれば誰でも満点を取ることができるはずですが、実際には平均点が3割台になる科目があったりします。その理由は様々ですが、一つが「選択肢に罠が仕掛けられている」ためでしょう。誰もが簡単に高得点できないよう、平均点が6割になるように難易度が調整されています。
教科書レベルの試験で平均点を6割まで下げるのは非常に難しいですよね。どうすればいいでしょうか。引掛け選択肢を複雑にして間違えるように誘導するしかないのです。減点方式、間違いに誘導して減点のチャンスを窺ってくる、これが共通テストの構造です。これと制限時間が重なって平常心を失うのです。自己採点で実力と乖離した点数を取って一喜一憂する人が絶えないのはこれが理由です。普段通りの実力をコンスタントに出すことが難しい試験なのです。他人を減点することに終始するこの国の働き方に似ています。
(3)受験生の罠、国語
多くの理系受験生だけでなく、文系受験生をも苦しめる鬼門が国語です。国語なんて日本語なんだから普通にできるとか、読書の習慣があればできるとか、そう思う人もいるでしょう。過去問や平均点情報を見てみてください。国語の平均点が5割を下回っている年があります。2014年なんかがそうですね。
医学系受験生でも大きく失点してしまう国語は魔物といえます。他の科目と異なり、突然遭遇した文章についての解釈や理解が求められるものであり、正解選択肢の解釈が原作者の意図と異なると指摘されるような試験ですから、国語というのは客観化が難しいのかも知れません。
2.失敗は失敗、実力は実力
(1)運の悪さを受け入れる
このように、単純な学力だけでなく、注意力や平常心の維持までもを問う試験が共通テストです。制限時間と引掛け選択肢で受験生の精神力を削ってきます。静かな部屋でリラックスして問題を解くのとは違うのです。その日の調子が悪かったら、予想を大きく下回る点数を取ってしまうこともあります。それは仕方がないのです。
私は高校時代ボウリングにハマっており、ボウリングに行くために学校を自主休講したりしていましたが、ボウリングも同じで、いくら練習しても、調子が悪いときは悪いです。それは仕方がないです。偶然その日が試験当日なら、その日の成績が悪いのは運が悪かっただけですから、仕方がないです。
冷静になって解き直して普通に正解できる問題を落としてしまうことがあります。それは仕方がないのです。言わなきゃいい言葉を言ってしまったがゆえに人とすれ違ってしまうのと同じです。しないように気をつけて問題を丁寧に解く、それだけで十分なんです。
(2)実力の無さを受け入れる
私がセンター試験を受験していた当時、センター試験では総合で8割を目指しましょうなんていうことがよく言われていました。確かに、8割(当時の理系5教科7科目で900点中720点)の得点があれば極端な難関大学以外は一次試験(個別試験受験資格)を通過することが出来ますし、個別試験との総合判定で大きなハンデになることもありませんが、さきほど書いたように、そう簡単に8割なんて取れる試験ではないのです。だって、そこら中に引掛け選択肢と悪魔の時間制限があるわけですから。むしろ、8割取らなきゃダメなんだという余計なプレッシャーを自分自身に課すことが最も危険です。
そもそも、総合8割って何の基準ですか?っていう話です。共通テストの試験は、国公立大学を受験する場合、大学が指定する配点に換算されます。たとえばこんな具合にです。
A大学の配点(合計1000点満点)
共通テスト|英60、数40、国60、理30、理30、社40=計260
※共通テストは900点を260点に換算
個別学力試験|英語200、数学300、物理120、化学120=740
B大学の配点(合計750点)
共通テスト|5教科7科目で600点以上が出願要件、合否判定に使用しない
個別学力試験|英語150、数学300、物理150、化学150=計750
共通テストそれ自体の配点と違う割合で算出される場合が結構あるのです。もちろん、大学によっては共通テストの得点を傾斜せずに総合点に参入する場合もありますが、すべての大学がそうではなく、更に得点圧縮されて大したボリュームにならなかったり、B大学のように指定のボーダーを突破することだけが要求され、総合判定に使用しない場合もあるのです。
その程度の試験であるにも関わらず、共通テストこそが受験の要であるとプレッシャーをかけるのは毒です。そんなに簡単に高得点なんて取れないです。教科書レベルの基本だから高得点じゃなきゃダメなんだと思いすぎない方が良いです。学校教育では何でもかんでも100点満点じゃなきゃいけないっていう価値観が支配的になりすぎて、教科書の基本的なレベルなんだから出来て当然っていう考え方や、学校のテストは100点を目指すものという神話が強まりすぎています。それをそのまま大学受験に当てはめること自体が無理なのです。
本質を理解してスピード感をつけて勘違いや引掛けの構造も紐解いて初めて共通テストで高得点を取る能力が身につくわけで、学校の勉強だけで勉強ができた気になる思考がそもそも危険なんじゃないかと思うのです。まだまだ知らないことはたくさんあるんだな、自分の理解できていた「つもり」なんて、まだまだなんだ、だからもっと学ばなきゃいけないんだと、自分の発展途上を素直に受け入れる機会が、この試験にあるような気がするのです。
3.人と比べない
(1)志望校って考え、人生を死亡させますよ
私が日本の受験文化でどうしても好きになれないのは「志望校」という考えです。所属する「学校」こそが第一で、学部や学科ではないという考え、嫌ですね。そして私自身も高校に通ったことで、こうした価値観に染まりかけていたのが非常に悔やまれます。「志望校」ってなんだよって話ですよ。大学は勉強しに行く場所、どこに所属するかではなく、何を勉強するかでしょう大事なのは。だから本来は「志望学科」なのであって、どうして「志望校」になるのでしょうね。どこで学ぶかも大事ですが、どこに所属するかばかりが注目されすぎて、ちょっと違和感がありますね。
この思想で最も怖いのが「より上位の大学に合格したいから、合格しやすい学科を受験・併願する」という考えです。「難関のA大学の理工学部を受験して、不合格なら滑り止めのB大学の理工学部に行く予定だけど、A大学の方が知名度が高いから、A大学の経済学部も受験しておこう」みたいなやつです。
経済に興味がない人がこれをやると悲惨ですし、職業選択で後悔しても軌道修正不能なので要注意です。これを受験生に思わせてしまうのが過度な志望校主義だと思うんですよね。何がしたいかではなく、どこに所属したいかを優先的に考えさせる文化、就職でもそうですよね。どんな仕事がしたいかではなく、「大企業に入りたいから営業でも我慢する」みたいな感じ。これが人を「やりたいこと」から遠ざけるんだろうなと思います。周りがそれだとなおさらですよね。
(2)あるべき自分を捨てる
上述の「志望校」問題に関連するのがこれです。学校に通い、友人知人と比較される環境にいると、周りの人間に劣りたくないとか、負けたくないとか、垂直評価的により良いところに所属したいという「こうなるべき」像に支配されるようになります。そうなると、純粋に自分が何に興味関心を持っているのかわからなくなり、貴重な人生の時間や労力を、本音では全然欲しくないものに使ってしまうことがありますね。
周りは子育てしているのに自分はしていないのが嫌だから子供を持ちたいとか、周りはバリバリ働いているのに自分は仕事で成功していないとか、比較の罠ってそこら中に落ちていて、その始まりは学校だと思うんです。自分自身と向き合えば絶対にしないような迷走を、常に他人と比較されることでうっかり罠にハマってしてしまう。恐ろしいですが、私にとってのこれが学校でしたね。
(3)本当に自分が欲しいものは何か
自分がこれから何をしていきたいのか。所詮、受験生の時点で比較している相手なんて10年後は縁が切れているだろう。それくらいに考えればいいものの、なぜかいつまでも比較が続く、優劣が続くと誤解するのが集団生活の落とし穴だと思います。一切の他人の視線から開放された時、自分がどういう人生を歩みたいか、他人に評価や同意されることではなく、自分はどうありたいか、これを考えずに優劣だけで人生を決めるのは勿体ないです。雑念を削ぎ落とした先に何が残るのか、雑音を取り除いた先に何が残るのか。それと向き合うことが本当に大切だと痛感します。
4.成功-失敗ではなく、楽しいかどうか
(1)就活で感じた受験失敗経験の価値
私は当初電気工学系への進学を望んでいましたが、進路選択の意思がブレて、不本意な学科系統の大学に進学しました。それは今でも後悔しています。妻と結婚できたのもこの失敗のおかげで事務職に漂着したおかげではありますが、妻との縁を手に入れられる運命が同じなら、進路設計をやり直せる場合、絶対に今の道は選びません。そして余計な比較対象がいる高校にも行きません。大検で十分です。
そして何より、この失敗が私に与えた最大の財産は「失敗に病まない精神を醸成できたこと」でした。まあ人生なんて運だし、判断ミスで失敗することもあるし、自分は世間一般で言う、自称進学校の高校出身者たちが目指す「リーダーシップ」とか「活躍」とか「功績」みたいなものとは無縁の人生でいいんだ、と思えたことは大きな成果でした。それが最高に活きたのは4年後の就職です。
就職活動の時期に、友人知人を含め、周囲の多くの人が、結果や他人との比較に一喜一憂し、精神を病んでいる人が少なくありませんでした。特に、私が在籍していた大学では大手病のような大企業志向、就職勝利志向が強いものでした。
周囲を見渡すと、病んでいる人に多いのが、内部進学や推薦入試を含め、大学受験で失敗経験がない人や、自分の所属する大学のネームバリューに自信を持っている人でした。思い通りにならない経験をしたことがない人にとって、就職が初めての失敗だったり、挫折だったりしたのでしょうが、すでに大学受験で自らの無能さと失敗した事実を受け入れていた私は「まあ、こんなもんだよな」と良くも悪くもドライに構えることが出来ていました。これは間違いなく大学受験で失敗したからです。
(2)強いとか偉いとか、どうでもいいんだということ
受験の次は就職、その次は恋愛、結婚、子供という感じに、人はいつまで競争するつもりなんだろう。迫りくる勝負を続けて勝ち続けることじゃなくて、この不毛な勝負から開放されることこそ、真の勝利なんじゃないのか?大学4年間、心から友達と呼べる人が一人もできなかった私は、普段の大学生活でこんなことを思っていました。比べる相手さえいなかったからこそ、既卒無職でも病むことがなかったのかも知れません。それは就職してからも同じで、偉いとか、能力が高いとか、出世しているとか、アクティブで強そうに見えるとか、カッコいいとか、そういうことには一切反応しないようになりました。自分のことを決めるのは、他人じゃなくて、自分だろ?と。
5.学ぶことは素晴らしいこと
(1)優劣や経済力と学びを癒着させない
幸運にも暇な会社に就職でき、そこでも社会不適合者として、窓際に配属された私は、以前にも書いたかも知れませんが、人生で残業というものを数時間しかしたことがありません。
じゃあその余裕時間で何をしているのかというのはこのアカウントで発信してきたとおりですが、特に良かったと思うのは、役に立つか立たないかに関係ない勉強が習慣になっていることです。資格がないと働けない薬学や栄養学についての勉強をしたり、労働で関与する情報通信系の知識だけでなく、電気工学や機械工学の基礎を勉強したり、意味もなく図書館に行ったりすることができるのは、勉強は仕事や学歴のためと思わず、自分はまだまだ無能なんだ、もっといろんな知らないことがあるんだ、だから楽しみながら学ぼうよ、と自分に謙虚に語りかける事ができるようになったからだと思います。
自分は有能であるべきだなんて勘違いしているころの私には到底できなかったことでしょう。何歳になってもワクワクさんのように工作したくないですか?
(2)大人になってから学ぶことの大切さ
勉強っていいですよね。試験のための勉強でもなく、仕事のための勉強でもなく、肩書のための勉強でもなく、SNSで自慢するための勉強でもない、純粋な好奇心からの勉強。目標もないから無理に頑張る必要もない、そんな緩い学びが好きで、それはもはや遊びに近いかも知れませんが、私が幸福を感じる瞬間の1つです。いつになっても、仮に身体が弱くなってあちこち散策できなくなったとしても、読書をしたり近所の図書館で新しいことを調べたりして、別の楽しみを見つけられる人間でありたいなと思います。今はその準備期間なのかなとも思いますね。
6.人生は思い通りにならない
絶対に金メダルを取らなきゃと意気込んだり、銀メダルで申し訳ないと悔し涙を流すような勝利至上主義がこの社会には根強いですよね。赤の他人の人生に勝手に自分の気持ちをシンクロさせ、勝手に期待して勝手に絶望して怒るファンという大衆も、この文化を増長させているのかも知れません。
目標を立てて努力して、思い通りになることを夢見て、そうじゃないときに絶望して、怒って、自分を否定して、誰かを責めて…みたいな循環は、未来永劫消えることはないのでしょうかね。仕事でもそうですが、次からはミスはしませんって歯を食いしばって大げさに上司に謝罪する部下なんていう場面が多いですよね。
どれもこれもですが、そんなの不可能だってセンター試験で学ばなかっったの?って思います。帰国子女だから英語は完璧という人でもケアレスミスして198点になることがありますし、国語が大得意っていう人が国語で8割に届かないことが普通にあるのがセンター試験、たかが試験でさえこうなのに、仕事やスポーツで「絶対に」なんて、どうやったら言えるんだろうかと思うんですよ。
調子が割るときもあるさ、電車が遅れるときもあるさ、仕事でミスしちゃうときもあるさ、金メダル取れないときもあるさ(というか、出場できないときもあるさ)…てな具合に、先が見えないものには、先を見ずにゆったり構えるのがいいんじゃないですかね。
7.センター試験が後押しした「子なし」志向
進路選択に失敗した私は、その失敗だけでなく、何かに囚われることにより向上心を維持させていたそれまでの生き方自体が失敗だと分かりました。これにより、一層「普通の人生を歩むこと」を自然に放棄するようになりました。だから私は「子供は持つべきもの」と思ったことは誓って一度もありません。そもそも人生にべきなどないのですから。そして「べき」と言われても一切動じないし、傷つかないし、相手にさえしない無神経さが備わった気がします。
同時に、失敗やマイノリティーというのは決して悪いことではないんだなともわかりました。そもそも成功に囚われている状態が良かったのかと問えるようになったのです。それを教えてくれたのは、1つのマークシート式の試験でした。
あれから10年以上が経過し、名称も共通テストに変わり、科目や運用も大きく変化しているようですね。そういえば、私の親もセンター試験の前身である共通一次試験で人生が大きく変わったようなことを以前話していました。多くの偶然と変化を生み出す不思議な試験、今年もいろいろな人の人生を変えたことでしょうね。