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DINKsという生き方を選んだ理由

子供をほしがらない理由をよく聞かれることがあります。子供をほしくない理由は色々とありますが、ざっと4つに分類できると思っています。この記事は夫が書いており、妻の意見と合致しない部分も多くありますが、結果的に、私たちは子供がいない人生を選びました。妻は保守的な世間で育っているので、子供をほしがらない男性に出会ったのは人生ではじめてだと言われました。具体的な理由を書いていくことにします。

(1)自分自身がこの社会をあまり希望的な視点で見られていないから

文字通りですが、ますます付加価値が求められる世の中でこれから生まれ、生きていく人間がどんな困難に遭遇するのかを考えたり、人類は果たして無理して持続していくべきなのかと思ったりします。

普通に生きて普通に食べていくだけでも大変な世の中、不安要素を打ち消すために奔走するような人生、そういう先細りの生命のリレーを続けるべきなのかな?と思うんですよね。就職できなかったらどうしよう、進学できなかったらどうしよう、結婚できなかったらどうしよう、子供ができなかったらどうしよう、そうやって、一生不安やネガティブな感情、自分がマイノリティや理想と違う人生を歩まないように何かにしがみつくような椅子取りゲームをやって、何になるのかな?と思います。

決して今の自分の人生や生命を否定しているわけではなく、これだけ不幸せになったり自殺したりする人がいるのに、これ以上、人間を増やしても、幸せの椅子に辿り着けない人が多くなるだけじゃないかと思うんです。生まれてしまったからには、一度きりの人生を思い切り楽しもうと強く思いますが、今の私が幸せなのは生い立ちや境遇など、運が良かっただけだと理解しているので、それが循環可能な普遍的なものだとは思えません。

(2)自分自身のこれまでの人生を振り返った時に、子供時代の経験をあまり良いものだと思えないから

子供時代の記憶について、私はこういう性格なので、学校をはじめ集団行動が苦痛で仕方ありませんでした。今でこそ学校で強制される合理性に欠いた慣習や指導が見直されようとしていますが、文明や理性・知性と最もほど遠い空間だったと思います。根性論や形骸的な連帯感が支配的になっていて、恐ろしい空間でした。

連帯責任、課題が終わっているのに帰ることを許されない、全員参加を強制される実施目的が明確でない行事、成果が検証されない教員の自己満足、社会の実態と乖離した進路指導、これらを12年間も繰り返して、莫大な時間を浪費したなと思います。

今は自分の裁量でさっさと仕事を片付けて定時退社し、休暇も最大限取得し、可処分時間を最大化することで家事、趣味、勉強、健康管理のすべてに余力を投入することができていますが、学生時代は無駄な待機時間や移動時間、拘束時間が多すぎて単調な生活の繰り返しでした。

友達もいて楽しい時間も多かったのですが、成人以降の自由を経験した今となっては、二度と繰り返したくない時代です。お金と時間の自由があってこそ、人間が人間らしいくいられるのであって、学校という場所は、時間を溝に捨てて死ぬのを待っているような空間だと思います。

休日や家族との時間は楽しかったですが、それを全部打ち消し暗黒の時代に上書きするほど、学校という場所が無意味で退屈で刺激のない忌み嫌うべき存在だったと感じます。保護者の立場でも二度と関わりたくない世界です。子供がいると、学校という地獄にもう一度足を突っ込まなければならない、そう思うとゾッとするんですよね。

(3)子供が怖いから

珍しい理由として驚かれるのが、子供が怖いというものです。仕事をしていても思うことですが、特権階級や特別な権限がある存在、絶対的に強い立場にある人間と関わることに強い恐怖心・警戒心を持ってしまいます。できるだけ避けようと思ってしまいます。

子供、老人、教師、インストラクター、マナー講師、ブラック企業の上司、役職者など、普通ならば許されないワガママが通用する対象や、犯罪行為をしても処罰されない権利を持つ者と対峙したくない、できるだけ関わりたくないという気持ちがあります。

学校が無法地帯になっていて、人を死に追い込むような凄惨ないじめを起こしても何の罪にも問われない未成年、教育困難校で横行する暴力、学校という閉鎖空間なら何でも許され、法律が適用されない特権がそれを助長する。そんな恐ろしさを感じます。

たとえば、私が街で死ぬまで殴られても未成年は無罪、私が一発でも反撃して手を出せば私が犯罪者になります。理性・法律が通用しない相手であり、ある意味、猛獣や虫を恐れているのと変わらない。残念ではありますが、そんな気持ちになってしまうのが、私にとっての子供です。学校と子供の危険性は幼稚園時代から察知しており、理性や良心が通用する社会に身を置く必要があると考えたため、勉強に努力値を振りました。

子供は愛らしい存在であることも十分承知ですが、それは加害行為を加える力を持たないうちの人間に対して感じるものであり、怪物になった彼らに対しては、本能的な警戒感を隠せません。電車で騒ぐ小学生や中学生の群れを見ると、サッと隣のドア付近や号車に移動してしまいます。こういうことを言うと人でなしのように非難されることもあるので、できるだけ表に出さないようにしていますが、私が心に秘めている本音の代表格です。

(4)他人に期待する気持ちがあまりないから

良くも悪くも、人間同士の侵略や攻撃性を回避する気持ちが強い子供時代を送ってきているので、他人に干渉したり、他人の言動や状態を自分自身の喜怒哀楽に組み込むことを意図的に排除しようとする力が働くようです。

芸能人やスポーツ選手のファンになったりしないことも、これが原因といえます。誰かに執着したり、その人の行動に影響されることが、ほぼないと言っても過言ではありません。

悪く言えば無関心ですが、自分は自分、他人は他人と線を引いた上で、ご縁があった人は大切にするというのがモットーです。人間関係は内税ではなく外税にするようなイメージです。

だから誰かの成長が心底楽しみなどという感情があまりなく、どうしても自分の分身がほしいという感情が沸かないのだと思います。

早い話が、妻という大切な存在がいるだけで私はもう十分幸せであり、信頼できる人が世の中に一人いるだけで、他に望むこと(他人に対して求めること)はないんですよね。

子供や孫の成長が生きがいという意見も多いですが、私にとっては、他人の成長や人生に自分の幸福を委ねてはいけないし、自分の人生は自分自身の行動で豊かにすべきだと思っています。

(5)まとめ

以上が私が子供をほしがらない理由です。どれも一時の感情ではなく、15歳くらいから一貫して変わらない信念です。死ぬまでこの考えが変わることはなさそうです。閉鎖空間、団体行動、治外法権の三冠王が確立されていることが、致命的な忌避ポイントとなっています。

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