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人間が悪口を繰り返す理由を考える
この記事を読んで色々と考えさせられた。ネットミームという現象により、ふと使われた言葉がどんどん拡散していき、それがごく当たり前の存在になり、人々が簡単に口にするようになる構造なのだろうか。
「チー牛」という言葉、よく耳にする。【「オタク」「陰キャ」「ネクラ」と呼ばれる層に対して用いられるインターネットスラング】とウィキペディアには書いてある。
電車の中でも聞いたことが何度もある。チーズ牛丼を食べている人の絵があって、それが特定の人間を指す言葉になって(そもそも「チー牛」という略称になったのはそれを呼び名として使うためなのだろうが)、人を蔑んだりバカにしたりする言葉になっているようだ。「陰キャ」のような感じで使われるこの言葉。人を揶揄する言葉は無限に存在し、自身も人生の中で数え切れないほど耳にした。
人をスラングで呼ぶことの不誠実さ(道徳的な議論)などは横に置いておき、この記事からわかることを淡々と記録していくのが今回の記事の目的だ。そして、自分自身は、何の害も罪もない人が理由もなく傷つく言葉を発しない人間になりたいという強い願いを再認識したくて書いている。
1.チー牛の何が悪いのか
バカにしたり蔑む対象の「チー牛」であるが、個人的にはこれに該当する人の何が悪いのかが全くわからない。何を基準に「チー牛」なのかもわからないが、要するに「内気で引っ込み思案な人」のことを悪く評価するものなのだろうが、こんな評価はただの学生時代のクラス内のキャラクターにすぎないし、いつまで小学校や中学校の評価を引きずっているのだろうとしか思えない。逆に、そんなに小学校や中学校が楽しかったの?と問いかけたくなるような感覚だ。学歴(〇〇大学出身)の話を中年になってもしている人がいるように、その人にとってはそこが人生の頂点だったのだろうかと思ってしまう。ある意味、不幸せなのかなと思う。
人がどんな学生時代を送ってようが、派手だろうが地味だろうが、どんな立ち位置だろうが、その人の内面こそがその人自身であり、レッテルを貼ってバカにして、単一的な「正解人格」に適合する人だけを容認する交友関係を作っていくと、本当につまらない人生になるだろうなあと思う。
内気で引っ込み思案な人が悪いものと思われるのは、もしかしたら「よくわからないものを悪いものとする考え」によるものもあるかと考えている。自分のことを発信せず、内向的で自分の殻にこもっているような人は「優れていない性格」であり、積極的にリーダーシップをとったり、人に影響を与えていく人が「優れている性格」だととらえられる場面は少なくないのではないだろうか。
人がどう思おうが勝手なのだが、私は、こういう価値観を全面に出す人を見ると、クスッと笑ってしまう。「俺はすごいんだ。お前は劣っているんだ。」と必死に人を蔑む人は、生存競争を一生懸命やっているんだと。
物事はわからないからこそ楽しいし面白いのであって、ひと目で分かるはっきりとしたものや、無理やりはっきりさせられた表象よりも遥かに魅力的だと思うからだ。内気で引っ込み思案な人がどんな面白いものを秘めているか、そういうのを知ることが人間関係の醍醐味何じゃないかと思う。最初からわかったつもりで一体感を醸成しようとしたりすることのほうが、よほど不自然な人間関係だと思う。
これは私自身が内向的な人間であるからという主観も入っていると思うけれど、たとえば、組織や集団で注目されている人気者と、静かな性格で浮いている人を比較したら、私が話しかけたいと思うのは後者だ。
さらにいえば、無害な人間の何が悪いのかという話になる。私にとって優れている人格は「他人に害を与えない人格」であり、優れていない人格は「他人に害を与える人格、弱いものいじめをしたりクレーマー行為に勤しんだりする人格」であるから、スラングを使って他人を蔑む人とは根本的に他人を評価する基準が異なるのかもしれない。
「人の悪口で盛り上がるのは人間として当たり前で、人の悪口を言わないお前は人格がおかしい偽善者だ」と過去に言われたことがあるが、この言葉に本質が詰まっていると思う。人間の自然状態として、異質なものを非難して快楽を覚える本能があり、それを肯定することは何も悪いことではないという考えなのだろう。だから、「チー牛」が悪いとかいう以前に、蔑む対象を作り出すことが「悪い」という認識が、大半の人にとっては希薄なのかもしれない。
2.子供にチー牛になってほしくないという願望
引用元の記事にあるお母さんは、子供に「チー牛」になってほしくないと語っている。学校や会社で目立たない地味な存在、周りから見下されるような存在になってほしくない、そうなると子供が可哀想だという意味として理解してよいだろう。これに対し、お父さんは、こういう感情を妻(自分の子の母親)が持っていることをとても残念に思っている。状況理解はこれでよいかと思う。
お母さんはこう主張している。
母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。チー牛という分かりやすい言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。
ただ普通の人間、社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。
お父さんは、お母さんの発言をこう解釈している。
・まず「チー牛」とは、社会生活を営む上でリーダーシップや創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手に逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう男性の総称。
・この「チー牛」という言葉は、妻の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした息子への疑念が生じた。
・息子を「チー牛」と思った理由は、息子の(公表しない個人的なスペック)や交友関係や部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから。
お母さんは「母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。」と主張している。お父さんの解釈を読むと、さらに「チー牛は異性関係が上手くいかないことにより悪い状況をもたらす」と考えていることがわかる。
底なし沼のように無限に陰鬱な感じが伝わってくる。物凄い嫌な考えだなと嫌悪感を覚えるものであるが、結局のところこれが生存競争を繰り返す者の本能であるようにも思えるからだ。
祖母たちも私に「異性にモテるようになること」を、社会的成功と同じくらいのレベルで期待するような発言をしてきたからだ。もちろん、人間が生まれてくる意味はなんなんだろうと考えていた私がモテるわけがないし、人間や社会を基本的に無碍なものととらえていたので、異性に好かれることが男性的成功であるという認識もなかった。
このお母さんも、自分が夫と出会ったように、子供が結婚相手を見つけたり、自分自身と同じように生きていけるようになってほしいと考えたのだろう。しかし、結局のところそれは、椅子取りゲームに勝ちさえすればよく、そのためには敗北者や脱落者、人から蔑まれ差別される存在を作ってもよいという考えにほかならない。
これがどうしようもなく嫌な感じなのだ。私が昔の社会をあまり好きじゃないのは、ここにある。一部の犠牲者を出しても自分さえ勝ち残ればいい、そして子孫繁栄は繰り返されていくという考え方が、この上なく気持ち悪いのだ。20世紀少年のように、誰かを犠牲にして実現する幸福のようなものが好きではない。いじめや村八分が嫌いなのも、道徳的問題以前に、犠牲者を出す文化が善いものとされていることが嫌いなのである。
「人間」というカテゴリーに、「人種」「民族」「国家」というカテゴリーが生まれ、「性別」「出身」「性格」のようなカテゴリーが生まれ、「優れた性格」「優れていない性格」というカテゴリーが生まれ、スラングが多用される流れを見ると、枠に当てはめるという行為自体がそもそも排他主義を正当化するための手段にすぎないのではないかとも思う。会社で役職を決めるのも、命令と服従の関係を明確にするためである。命令と服従の関係を構築する必要がないのだとしたら、区別する必要はどこにあるのだろうか。区別するということは、何か目的があるはずである。その目的が「差別と序列化の許容」だとしたら、とても重苦しい人間の本質である。
このお母さんは、組織や集団をコントロールするような人格を形成できないと、対人関係での困難に直面し、異性とも関係を構築できないと思っているが、まさにこの人格に当てはまる私が普通に結婚しているところを見ると、必ずしも彼女の主張は正しくないし、大衆を盲目にさせ誰とでも表面上はスムーズに関係構築できているように見えるアイドルや芸能人が独身だったり離婚していたりする現象をどう説明するのだろうか。
「チー牛」に育つことは「可哀想」なことらしい。集団の中で目立ち見上げられる存在になり上手く立ち回らない人生は「可哀想」な人生らしい。とても面白い・素晴らしい考え方だと思うし、そういう人にはこれからも生命のリレーという名のデスゲームを続けてほしいし、大人や社会にヨシヨシされながら輝いてほしいと傍観者は思う。
3.悪口文化はなぜ肥大化したか
以前の記事で、現代社会は「評価に支配された社会」と書いたが、これが悪口文化を増長している気がしてならない。
この記事も興味深い。内容ではなく、感情が沸き起こる仕組みとプロセスが興味深いのだ。これを書いた人について言えることは以下のとおりである。
朝ドラを観ている
朝ドラの物語や主人公の描写に嫌悪感を持っている
SNS上の朝ドラの評判を観ている
SNS上の朝ドラの評判に嫌悪感を持っている
上記から量的なことはいえないものの、項目出しする限りでは、朝ドラについての評価をしている16行の本文のうち、朝ドラの内容自体に言及するのは5行だけで、残りの11行については、SNS上の他者の書き込みやフェミニストの考え方について述べているものである。本体は5割に満たないのである。
物事について評価する時、現代では「他人がどう考えているかを参照」しやすい。検索しても、口コミや書き込みが上位に表示されるし、そもそもSNSで検索すれば、情報より先にユーザーの意見が出てくるからだ。それを繰り返していると、いつのまにか、対象に関しての評価ではなく、対象に関する評価に対する評価をしてしまうことになる。
この記事へのコメントにもあるが、そもそも「嫌なら観なければいい」「観なければいいのはドラマではなくX」とあるように、一次情報と二次情報を適切なバランスで取得すること、場合によっては二次情報を取得しないことが、重要なのではないかと思う。特に二次情報を適切にカットできないことがストレスや争いにつながっていることが、SNSの普及とともにどんどん目立つようになってきている。
一次情報を入手することは労力を必要とするし、自分ひとりで考え行動しなければならないから、孤独で消耗する作業である。それゆえ、二次情報を簡単に入手してそれを自分自身の情報や評価にしてしまおうとするのがネット社会の罠である。二次情報には恣意的なものや検証を要するものが多いが、それを一次情報だと誤認して吸収することを人に慣れさせてしまうのがSNSである。
上に書いたように、ドラマをただの物語として楽しむ以前に、このドラマを評価することが視聴者の目的になっている節があり、最近の朝ドラ文化は変わってきているように思う。暴力シーンや理不尽な場面が無限にある学園ドラマや不良ドラマが人気を集め、不快感に満ちた反響を呼ばない一方で、朝ドラがイデオロギー対立に火を付ける理由はなんなのか。学校文化は子供の世界だから許されて、朝ドラは個人の人生を描いたもの、社会全体を描いたものだから、イデオロギーを刺激しやすいのだろうか。
もしかしたら、このように議論を呼ぶことを狙って作られているのかもしれないが、いわゆる「朝ドラ反省会」のような、社会や価値観に沿ってその作品的善悪を決める「裁定」が、フィクションとしての作品を鑑賞する目的になっているとしたら、それは人と人との対立を生む。何か特定の価値観に適合するような主張が組み込まれた話になっているとすれば、相対する価値観を持った人が見れば「不快なもの」となってしまう。
SNSが爆速で普及してから、「情報収集」→「他人の評価を見る」→「批判」→「対立」→「炎上」の循環が以前とは比べ物にならないほど頻発しているように思えるのである。
絶景を見るための旅行も、美味しいと評判のお店も、事前に情報と評価を入手することにより、そのワクワク感を喪失することと引き換えに、それについての「善悪評価」を獲得することで、その評価の正しさを検証するような答え合わせの旅が始まってしまう。
4.自分自身と一次情報を尊重できているか
評価するのは自分自身であり、経験するのも自分自身であり、あくまでも主役は自分自身であったはずだ。共有することで自分を主役にすることを失った人々がストレスを溜めたり他人に攻撃的になるのは必然と言えるかもしれない。鬱憤を溜めやすい構造がそこにある。本当であれば自由に解釈していいはずなのに、自分が尊敬する著名人やインフルエンサーと意見を合わせたくなったり、先行して入手した二次情報に一次情報をすり合わせるような体験を重視してしまう。
すり合わせと裁定が社会生活の目的となってしまえば、自分自身が確かであることを、他人を通して証明するしかなくなってしまう。自分が正しいことを相対的に証明することには、間違っている何かを作り出し、それを悪いものだと結論づけることでしか実現しない。だから悪口は繰り返されてしまうし、文化になってしまうのではないだろうか。人間はみんな自分が主役で、大切なのは自分自身の感覚なのだが、それを自ら捨てて、どこに向かっていくのだろうか。
他人の悪口を言わないでいられるのは、自分自身が正しいと信じることができるからである。それは傲慢さではなく、自分の感性や存在を信じることができるメンタリティである。それは主観でも独りよがりでもいい。他人を否定することで自律しようとするくらいなら。むしろそれは「内気で引っ込み思案な人」だからこそ獲得できる生き方かもしれない。
もうすぐ妻が帰ってくる。さあ夕飯の準備をはじめよう。楽しい三連休の始まりである。