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幸福な中年とDINKs

先日、ある会社の面接に行った。これまでと同じように、情報システム関係の仕事を中心に求人を見ていて、応募した。

書類を送って、すぐに面接の日程が決まった。これは珍しいことではない。情報システムや社内SEは離職率が高い。これは過去の記事で書いた通りだ。

離職率が高いから変な時期にも求人が出る。そして特に長い期間働いてくれることを期待しない職場も多い。サーバー更新や端末の大規模な入れ替えなど、明らかに人員が不足しそうな時にいてくれればいいのである。残りはベンダーに丸ごと依存して、何かあった際にはサポートに丸投げすれば、社内SEは不要と考える会社も多い。一方で、複数の会社からソフトウェアやウェブサービスを購入していたり、契約先が多岐にわたるなど、社内で経緯を知る者が必要な会社は、小規模事業者でも社内SEを置くことがある。

今の労働環境は恵まれているかもしれない。情報システムは一般の事務職よりも報酬は高い。プログラムコードを書けるわけではないので、エンジニアには程遠いけれど、今の普通の企業に求められるITレベルは、PCとサーバーの一般的な利活用、情報の取り扱い、監査コンプライアンス関係ができればそれでいいと考えられる場面も多い。けれども、ITアレルギーの人が事務系に多すぎて誰もやりたがらないから、SEや情報システムに特化して募集している求人は、少しだけ所得が高く設定されている(そうじゃないと人は来ない)。

実際、前職も、私が退職して以降は、たかがPCのキッティングとネットワークの運用監視レベルであるにもかかわらず、難しいから業者に大金を払ってでも丸投げし、担当者を置かないという判断がなされたようで、いかにこの仕事が世の中の事務系労働者から忌避されているかがわかる。

個人的には、情報システム業務は8割が面白いし、楽だ。人間を相手にする接待や調整の仕事と異なり、機械的なものと対峙すればいいだけだからである。人間臭い茶番を演じる必要もないし、黙々と問題解決のために調査したり、ユーザーの疑問点を解消して喜ばれるのは面白い。一方、残り2割の社内監査や予算折衝、絶望的な理解度である経営陣への説明が著しく苦痛であり、総合職の場合はこの2割の業務が必ずといっていいほど付随する。担当職でエンドユーザー対応やヘルプデスクだけ担う求人も存在するが、その場合は収入が低くなってしまい、この苦痛と収入の低さのどちらを許容するかが、職群や職域を選択する決め手になる。

それでも、やりたがらない人は多い。それはなぜか。単純に難しいと決めつけていることや、ITアレルギーなのもあるだろうが、それ以上に、システムの仕事が社内で市民権を獲得していない事業所が多いからではないかと思う。情報システムなんて何をやっているのかわからないし、一人で担当者が黙々とやっているだけの地味な業務、上司・管理職がITアレルギーや絶望的なリテラシーレベルの場合、完全に担当者の一人プレーになる。だから業務命令さえされず、自分で組み立てて、正解や前例も用意されず、ただ言いたい放題わがままを言われるだけという地獄が完成するのだ。他の業務に関する知識は自分で勉強することが当たり前なのに、ITになると途端に「ITはわからないのが当たり前。どんなにわからない奴にも、わかるように説明するのが筋だ」と、したり顔で説教する高齢労働者がいかに多いかを痛感する。IT介護と揶揄される原因もこれであり、介護職から肉体的負担を除去し、精神的負担を何割か削ったものが、IT業務だといえるだろう。

そういう実態を見ていると、避けたいと思う心理が働くのかもしれない。特に、一つの職場に勤め続けたい人とは相性が悪い。この仕事は、人のクレームを受ける立場の仕事だから、八つ当たりをよくされる。機械が正しくて人間が悪いのに、人間が正しくて、人間のイメージ通りにならない機械が悪いとされるのだ。そういうバカをお客様として扱えるかどうかにかかっているし、社内の人間を嫌いになることが多く、一緒に働く人間を仲間と思える場面が少ない。だから、転々と職場を動いていける人の方が向いていると思う。だから避けられやすいのだろうと。

こうした不都合が起きるのは、先述の通り、業務の重要性が軽視されている職場に身を置いているからだとも思い、今回は、情報システムの部署が独立している会社に応募した。詳細は書かないが、そこは、医療に関するシステムを扱う会社であり、自分たちの仕事が最終的に「個人」に還元される性質が強い組織である。

特定の業界の利益やイデオロギーを維持するための組織に身を置くことが多かったので、労働が社会や他人の役に立っているという実感を持って働ける場所はないか、そういう会社はどういうものなのかを知りたいという好奇心からの応募だったが、結果的に、面接に言ってよかった。というのも、面接の際に業務紹介をしてくれた人が、割と楽しそうに話していたからである。組織の体質や古い慣習はだめな部分があり、それを変えるために試行錯誤してきたけれど、日々の取り組みが必ず個人につながるから、ここで地味だけど毎日やっていけば、面白いこともあると思うと、その人は言っていた。

楽しそうな顔をしている労働者、特に、中高年で楽しそうに、純粋に何かの役に立つことを喜ぶような話をする人を、これまでほとんど見たことがなかったから、不思議と嬉しくなっていた。メンツや肩書、立ち回り、出世など、人の目や評価ばかり気にしている人に囲まれ、好奇心のままに楽しく働こうとする考えを否定され続けた経験から、楽しくないことを共有することが社会の正義なのだと諦めていた。しかし、社会には、少なからず、純粋に活動を楽しんだり、意味を見出すことを諦めていない人がいることを、実感を伴って理解した。何より、(損得や立場なしで)楽しそうに働く人の姿を見たのは久々だった。飲食店を営む親戚の顔を見た時以来である。私はこういう働き方や生き方がしたいのだと再認識させられた。

そしてこの人はこうも話した。「自分は何か役に立つとか、面白いと思う気持ちでやっているけれど、そうじゃなく、普通にのんびり最低限働いてワークライフバランスだけが大事という人もいる。でも、そういう人もいていいと思うし、考えはそれぞれだから」と。自分は自分、自分の主義主張への賛同や苦労の量を他人に求めない考え方も、とても共感できた。

この会社の選考がどうなるかはわからない。技術的に不足する部分があったり、待遇面で迷うこともあるかもしれない。けれども、こういう人が労働者にもいるんだとわかっただけで、結果なんてどうでもいいほどに良い縁だったと思う。思いがけない経験や縁があるから、いろんな組織を見ることは本当に重要だと思う。

時間的・精神的に余裕がある私達DINKs夫婦も、こういう「楽しそうなオジサン・オバサン」になりたいねと、昨日も飲みながら話していた。少なくとも、これを教えてくれたその面接官の人には、幸福な生活を送ってほしいと思った。

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