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嫌う暇があったら好きを増やす

先月の話題の一つだった自民党総裁選。看板の気合いが入っていたりネットを活用したりと、都知事選もそうだったが、斬新なやり方が面白いと思った。

政治的思想は持っておらず「DINKSに市民権が与えられ続けられればOK」程度のスタンスなので、特段誰かを応援したり、誰かを忌避したりということはないのだが、社会の反応を見ると、政治思想が強い人は多く、その中でも、自身の思想・主義主張と異なるものを非難する言説が多く見られ、とりわけそれはXなどのSNSで頻出していることがわかる。

政治思想には方向性が無数にあり、価値観の対立が可視化されやすい、捕捉されやすいゆえに、それを煽る勢力も強く、対立していることが、ある意味で同じ思想を持つ者同士を団結させているような感じがある。共通の敵を作ることで自信をつけたがる人間の心理が働いているように思うのだ。

こうしてブログをやっていても「○○であるべき」のような言葉を見聞きすることがあるし、一般人にとって、たかが看板や標識程度の効力しか持たないような他人の日記やコラムに対し、物凄い形相でアンチコメントや説教を垂れるような事象も散見される。


1.自分が信じている対象の正しさを証明する方法

話を戻すと、政治アカウントのようなもの、政治や社会について延々と意見を垂れ流しているアカウントには「悪口が多い」という共通点があげられる。特に、嫌いな政治家や政党(国や宗教)のニュースを引用して、それに同調してネガティブなコメントを書き込んでいる人が多い。自身が支持しないものが「悪いモノ」である証拠集めに四六時中奔走しているような感じである。悪口っていうのは、その対象が誰であれ、見ていて嫌なものだなあと思う。仮に自分があまり好きではないものの悪口だとしても、進んで聞きたいとは思わない。

AとBという物が存在するとき、Aが好きな人は「Aは良い!Bは良くない!間違っている!」と主張することが多い。「Aを選択している自分は正しいのだ!」と言いたいのだろう。こういう人がSNSにおいて、Bを選択している人を「頭が悪い」などと非難する。

自分が選挙に出ているわけでもないのに、自分が信じている者の支持者を増やすことを一生懸命にやっている、それがこうしたアカウントの存在であり、行動であるように見える。それが悪いと言っているわけではなく、行動の目的として、「間違ったものを正す」「間違ったものの悪い点を表面化する」ことがありそうだ。そしてそれは自身が正しいものを選択し、支持していることを正当化することにつながっている。アイドルの「○○総選挙」なんかの時にも見られた文化であると感じる。

2.子供を持つべきか論争に置き換えてみる

この事象が私にはとても奇妙に思えてしまうのだ。これを「子あり」と「子なし」で考えてみると、子供を持つべきだという人がいたとして「子供を持つことがいいことだ!子供を持たないなんておかしい!」「みんな子供を持つべきだ!」と主張するのだろう。このパターンは実際に「子なし」を批判する「子持ち」に多い…割合が多いことは否定できないだろう。

一方、子供はいらないと思う人がいたとして「子供を持たないことは良いことだ!子供を持つなんておかしい!」「みんな子供を持つのを辞めよう!」というだろうか。おそらく、言わない場面が多い。私もそうである。「マジョリティとしての子持ちがある中で、マイノリティとしての子なしを選択していることが楽しい」と思っているにすぎないのだ。いくら間違っているとか少数派だとか変わり者だとか言われても、特に腹を立てたり、プロパガンダを流すようなことをしたいとは思えないのである。

3.好き嫌いと善悪・正誤

この対立項は支持政党や社会的価値観とは異なる要素かもしれないが、好きなものを「正しい」「多数派」に持っていきたがる心理を持つかどうかを判断する上では役に立つ。政治系アカウントには「私の信じているモノはマイノリティで正しくないかもしれないけど、それでも私はこれが好きだ!」と主張するものが極めて少ない。「好きだから応援する」よりも「正しいから好きだ。だから応援する」というパターンが圧倒的に多い。だから「○○党は○○な部分がダメ」とか「○○議員の○○な不祥事が」とか、そういう話になってくるし、結局、マスコミと同じで、好きなものの良い知らせ、嫌いなものの悪い知らせを集めることに終始してしまうのである。

正しくなかったら好きになってはいけないのか
正しかったら嫌ってはいけないのか

これが人間・文化・社会に根強く備わっているようだ。誰かを嫌いというために、その人の悪い要素を頑張って探し、誰かを好きというために、その人の良い要素を頑張って探し、それを衝突させるネットのイデオロギー論争、私がSNSに深入りしないように気を付けているのは、このような毒素が泥沼のようにあちこちに潜んでいるからである。

4.嫌っている暇はない

何かに対する嫌悪に気持ちを燃やしている暇があったら、そのエネルギーを何かを好きになるために使った方が幸せだと思う。ネットでわざわざ嫌なものを検索して、その悪いところを探して叩いている暇があったら、私はその時間を使って妻の良いところを一つ探したいし、夫婦で次の休みに何をしようかを考えたい。

ネガティブなことを一つ思いつくことのかわりに、配偶者に対する感謝や愛情を一つ言葉にする時間にしたい。優しい気持ちや言葉に囲まれ、自らも発信していけば、自然とネガティブな思想や攻撃的な思想、それらについてのいらだちは消えていく。

悪口を言っている人たちを見ていると、少なくとも幸せそうには見えない。自らを幸福から遠ざけているように見えるのだ。私はそうではなく、妻とどうやって幸せであり続けられるかを考えることに、ちょっとでも多くの時間を割きたいと思う。

好きを表現するために嫌いを引き合いに出すの、本当にそれが好きって言えるのかな?という話でした。コウペンちゃん大好き。

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