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DINKsが考える女性の社会進出と幸福

夫婦で考える性別と社会の関係シリーズ。このテーマの記事が続いてしまいましたが、今回もこの関連で、女性の社会進出について、自分が考えるところを整理しようと思います。

妻は地方都市で高卒公務員として働いてきました。妻の所属していた社会・世間においては、以下の価値観が支配的でした。

  • 女は結婚して子供を育て、良い母親になるのが幸せである

  • 女は特別に高い学歴や職歴を持つ必要はない

  • 女は男を立てて働く男と子供を支えるべきである

特に3番目の価値観を書くとどこ出身かがわかってしまいそうな感じですが、妻はこんな田舎が大嫌いで、二度と帰りたくないという思いから、転勤上京したのち、帰らずに結婚退職しました。

加えて、妻は両親(特に父親)から、以下の価値観を継承してきました。

  • 女も働くべきである

  • 働きながら子育てを両立して、安定した家庭を築くべきである

  • 社会の役に立つ仕事は公務員である

  • 女の子だから遠くに出ず、地元で就職・結婚してほしい

これを受けた妻は、高校時代に進路に悩みました。選択肢としては次のものがありました。

  • 就職する(公務員になる)

  • 進学する

妻の親は、大学に進学するならば国公立大学か、上京するならば東京の難関国立大学でないと、学費は出さないという意向でした。妻は外国語や歴史に関心があったので、たとえば東大や一橋大や東京外大であれば上京を許されましたが、そうじゃない場合は地元の駅弁大学に入学するか、高卒で公務員になる道しかありませんでした。

結局、妻は高卒で公務員になる道を選択しました。妻の高校からは大学に進学する人も多くいましたが、皮肉なことに、中途半端に大卒になっても大卒就職氷河期でほとんどまともな就職先がなかった時代だったので、妻は結果的に高卒就職してよかったといわれる状態に落ち着きました。

こうして公務員になった妻。安定していることと田舎では職業ヒエラルキーが高いことがメリットでしたが、それを上回るデメリットが有りました。それは、圧倒的に忙しいこと、田舎では公務員は住民や世間の監視にさらされるというものでした。

一方、就職氷河期やリーマンショック時代以降は、女性が家庭に入るということが物理的に不可能になり、稼げる女性が一気に市民権を獲得するようになります。公務員の女性は良い、公務員と公務員が結婚したら一番安定している(要するに、これまで通りの昭和の核家族を構築できる)という評価を受けるようになりました。

こうして、羨望を受ける人生のテンプレを歩み始めた妻。これだけを見ると、幸せな20代を謳歌できると考えられるでしょう。そして妻のような女性は幸福な人生を獲得できると思われることでしょう。果たして本当にそうでしょうか。その後の経過を振り返ってみることにしましょう。

誰もが羨む地方公務員としての生活、そのイメージとは裏腹に、実態は以下のようなものでした。

  • 慢性的な人手不足と時間外労働

  • 男尊女卑文化が根強く残る不平等社会

  • 義務だけが平等になった社会

順番に見てきましょう。

1.慢性的な人手不足と時間外労働

これは文字通りといえますし、どこの地域でもそうでしょうし、どの仕事もそうでしょう。ブラック企業全盛期へと向かい、労働が奴隷文化になった時代。公務員が安定しているという神話は成立しなくなります。ただクビにならないと言うだけで、過労死や鬱による休職が相次ぎ、決して労働環境が良いとはいえない実態が明らかになっていきました。妻の所属していた自治体でも、サービス残業や無賃休日出勤は当然のように行われていましたし、パワハラやセクハラも横行していました。

2.男尊女卑文化が根強く残る不平等社会

男女が平等に採用されるようになっただけで、採用されてからの世界で平等に扱われるかどうかは別問題です。東京のベンチャー企業でさえも、男女差別意識が強い人がたまにいるくらいですから、地方や硬い組織では未だに古参が女性を蔑視する、女性はお茶汲みして愛想振る舞って結婚まで働けばいいという意識が支配的であることは言うまでもありません。

私の勤務先でさえ、管理職は「女性陣は」などという言葉を使います。労働に性別は関係ないと思いますが、性別で人を区別してしまうのが人間の性なのかもしれません。女性だから昇進が遅い、男性が優先的に総括的ポジションに付く、手柄を横取りするなどという現象が普通に起こっていたようです。

3.義務だけが平等になった社会

男女が平等に扱われないとしても、平等に採用された時点で、課される仕事の量や責任は同じです。評価が異なるだけで、義務が軽くなるわけではないわけです。これが何を意味するでしょうか。私も最初はよくわからないでいましたが、10年労働した今は少しずつ気づいています。

非営利な組織に所属することが多かったので、女性の採用や昇進が積極的に行われている場面に身を置いた期間が長くありました。どの部署も男女比は均等か女性が多い程度だったので、女性がどうやって仕事をしているのか、どう生きているのかを考える場面、本人たちから直接話を聞く場面も多くありました。

同期も女性であり、子供持ち、子供なし、未婚、既婚とさまざまです。色々なことを見聞きしたが、唯一言えることは、職場で評価され、幅を利かせている女性の多くが、昔の男性と同じ価値観を持ち、同じ働き方をしているということです。絶望的な話ではありますが、女性を積極的に採用したからと言って、女性が生きやすいと感じるような労働と私生活のバランスが担保された働き方が許されているわけではないのです。

一般職と総合職で考えると、嫌なほどにこの構造がわかります。以前は一般職が女性、総合職が男性を中心としていました。一般職に集まるはずの女性を総合職で採用するようになると、総合職が男女混合、一般職は女性だけの状態になります。一般職の女性はこれまで通り、ワークライフバランスを重視した「決まったことをしっかり果たす働き方」を続けます。本来、総合職もこの働き方で良いはずです。給与の差により要求される成果の差は異なりますが、それは成果物の差で残せばいい話です。

しかし、総合職の管理職や同僚は男性中心であり、男性はこれまで通り、残業ありきの長時間労働、人生において労働を中心にした働き方を続けています。それは「残業しないと終わらないような人員配置を許している」ということです。そこに女性が入るとどうなるか、もうお解りでしょう。結局、いくら能力があっても能力以上の労働量を課され、労働にコミットするしか選択肢がなくなるのです。

私は、労働における男女の平等は、女性が持っていた「バランスよく働き私生活を大事にする生活スタイル」を、性別問わず広く普及させ、もっと自分の人生を大事にできるように「負担を薄めて義務を分配する」ことに、その意味があると思っていました。しかし、結局のところは、椅子の総数を変えずに女性に総合職行きの切符を配布したにすぎず、そこでの過当競争に勝利できる女性だけが利益を獲得できる構造を作っただけでした。

4.実際にどうすればよいか

言葉を選ばずにいいますが、私の経験した職場では、バリバリ仕事をして評価されている女性は、9割方イライラしていたり、不満足そうに働いています。まるで男性が戦後ずっとそうしてきたかのように。そして自分と同じように働かない、同じくらい熱量を持たない人に憎悪を向けています。それが女性自身ではなく、社会の構造のせいであることもわかっており、とても気の毒に思っています。

この本において、以下のように述べられている箇所があります。

こうした数々の困難を乗り越えて一部の助成が管理職になっても、彼女らは、管理職という「男の世界」においては少数派でしかない。したがって、彼女らは、「男性化した女性」あるいは「名誉男性」という、いわば例外的な女性と見なされがちである。そうすると、実際には女性が管理職に就いていたとしても、それが管理的業務と男性性との意味の結びつきに与えるインパクトは無効化され、意味としての男性優位は保たれることになる。

男らしさの社会学,多賀太,世界思想社,2006

制度上の男女機会均等が達成された後の、企業社会における男性支配体制は、企業社会が定義する「男らしい」働き方ができる男性たちに加えて、「男のような」働き方ができるごく一部の女性を選別する一方で、「男のように」は働けないほとんどの女性たちに加えて、「男らしい」働き方ができない男性たちをも周辺化しながら維持されていく。

男らしさの社会学,多賀太,世界思想社,2006

上記で指摘されることは、労働現場にいると心底感じられるところです。結局は、昭和男性型の人生を追従できる人だけが「正しい労働者」として君臨する構造の椅子取りゲームが継続されているに過ぎず、その競争に女性が参入しただけであり、「女性ならでは」とか「女性の視点」なんていうのは、ちっとも尊重されていないんですよね。

だから、イライラしながら、男性に迎合することを強いられて働く不幸な女性をとても多く見かけます。特に保守的な職場ではこれが顕著だと思います。女性の採用人数だけを増やし、それでいて、男性のような人生を歩ませるわけですから、幸福になるわけがないんですよね。

賛否両論のある昨今の「女性枠」のような考え方ですが、個人的には、労働社会にこそこれを導入する効果があると思います。現在のように、競争に勝ち、男性中心社会に適合する意志を認められた女性だけが労働社会に参入しても、それは既存男性社会の性質を肯定し、それを強める人が増えただけに他ならないと思うからです。

むしろ、これまでの男性とまったく異なる思想を持つ女性が、管理職やルールを作る側に回ることが大事だと思います。だからこそ、頭数を徹底的に増やすのが大事だと思うんです。

人が増えただけでは意味がない!と言われそうですが、多くの女性が社会のルールを作る側に回れば、男性中心社会に迎合しない人の数も増えますし、その人達が違うルールを作ることで、既存のルールを良く思わない人の絶対数が増えると思いますから、とにかく人数を増やすこと、ルールや空気を作る女性の人数を増やすことが重要だと思います。

「仕事はほどほどに」という人が増えない限り、労働を第一に添える人生設計が支配的である社会構造は変わらず、いつまでも生活や人生を生贄にする社会が独走するだけでしょう。過去に、緩い働き方をする女性が管理職だった他社の部署を見ることがありましたが、その部署は定時退社や有給取得が進んでいましたし、それでも仕事は回っていました。必要のない会社への忠誠心や取越苦労のような完璧主義を求める社員からは疎まれていましたが、「仕事は必要なことをさっさとやって定時で帰る」という人がリーダーになるだけで、途端に労働環境が変わるわけですから、管理職だけでも早く女性5割、女性10割にしてほしいなと、労働嫌いの私は思いますね。

5.労働から解放されることで全部解決した妻

妻も結局、この構造の中で、あれこれ思いながら田舎で過ごし、働いてきたわけですが、結局、今、東京に来て、仕事もやめて、新しいことをはじめて、毎日楽しそうにしていますから、制度や文化をあれこれ変えることも大事である一方、この構造が変わらないんだとすれば、無理に働くこと、仕事で自己実現しようとすることを辞めるのが最も手っ取り早い方法なのかもしれません。

今の社会は、女性に男性の真似をさせることを正解とする社会で、本当ならば、男性が女性の真似をすべきだったのかなとも思うわけですが、やはり昭和の男性というのが、性別を超えて、人間のロールモデル担ってしまっているところが大きいと思うんですよね。だったら、男女問わず、その舞台を早めにおりることが、幸せへの近道かもしれません。

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