やるかやられるかの世界を生きる~統合失調症である私のサバイバル術その㉔~追い風が・・・
前回まで
精神保健福祉士としての一歩を歩み始めた私。ここから今につながるキャリアが形成されています。
やるかやられるかの世界を生きる~統合失調症である私のサバイバル術その㉓~ちいさな自信|せっと|note
日々の業務をこなしていく中で、私がどのように仕事をする生活を続けていいったか、自分の中でどのような変化が起きたか、またそのことで統合失調症の症状がどうなっていったかについて、今回はお話ししていきたいと思います。
それは突然に・・・
週2日、半日の非常勤勤務を続けて2か月ぐらいたったころ、常勤であった世話人さんが突然退職してしまいます。
私のもとに白羽の矢が立ちました。常勤スタッフがおやめになられたことを喜ぶわけではありませんが自分としては「チャンスが回ってきた!」、という気持ちでした。
また、上司たちが私の働きぶりを見ていてくださっていて、評価をしてくださったのだな、なんてことも感じ、うれしくも思いました。当然二つ返事で快諾しました。と言いたいところですが、自分が統合失調症であることをクローズで入職していたため、常勤となったとしたらその部分をどうするか、隠し通すのかそれとも開示するのか、ということと、週5日、フルタイムの仕事を自分にこなせるのか、といった懸念事項もありました。
何人かの人に相談をしており、当時つながっていた就労継続支援B型事業所のスタッフの方からは、いきなりフルタイムでの勤務はハードルが高いのではないか、徐々に日数を増やしていくなどして慣らしていくのがいいのではないかということと、クローズで配慮がない状態での就労は大変なのではないか、といった意見をいただきました。
また、当時の主治医は、実績を認められた部分もあるので聞かれていないことをあえて言わなくてもいいのではないか、また、配慮がなくても働いていくことはできると思う、といった意見でした。
最終的に、自分としては、働いていける、と言いますか何としても働いていくんだ、という自分の気持ちに忠実になることにして、クローズのままで常勤の仕事を受けることにしました。
背水の陣をひいた、ともいえるのではないかな、とも思います。この時もう病気があることを言い訳にしないぞ、といったような確かな覚悟も持ちました。
常勤職員として
はれてグループホームの世話人として、何年ぶりかで常勤としての仕事を開始することになりました。
常勤として勤務を始めたことで、よかったこともたくさんありましたがそれと同じくらい大変だったこと、苦労したこともありました。
よかったこととしては毎月きちんとそれなりのお給料がいただけること、このことがとても大きかったです。
私は退院してからは実家暮らしで、衣食住に関する援助を全面的に両親に頼っていました。
自分の娯楽や毎月の通院の費用などのためには2か月に1回の障害年金を充てていましたがそれだけではとても心もとなく、かなり制限のある生活をするしかありませんでした。
いい歳をして親に生活の面倒を見てもらっているということの後ろめたさや、ほしいものも自由に買ったり食べたりできないということのみじめさを日々強く感じていた私にとって、給料の中から実家に生活費を入れることができるようになったことと自分の好きなもの、ほしいものをある程度自由に手に入れられることができるようになったことで、再び自分が一人前の大人に戻れた、と思えるようになり自分を卑下する気持ちがすこし薄まりました。
なんかいい感じ
また、統合失調症の症状も働くことができるようになって軽くなってきたように思います。ちょうどこの時期に主治医からの提案で、内服薬からデポ剤に処方が変更になっています。
この処方が自分には合っていたようです。勤務中に周りの目を気にして薬を服薬する必要がなくなったことと、内服薬を使っていた時は服用した後しばらくは感覚が鈍ってしまうような感じがあったり、薬の効果が切れてきたころにはざわざわしだしたりということがあったのですが、それがなくなり比較的常時同じような状態でいられるようになりました。
また、気持ちの面でも仕事を覚えていくことで日々自分がレベルアップしていくように感じられましたし、そのことをきちんと評価されることで自己肯定感もアップしていき自分自身がどんどん元気になるという好循環が生まれてきました。自分のリカバリーがどんどん進んでいくのを感じていました。
今回はここまで。働くことができるということが自分にとってのリカバリーに繋がっていたんだな、なんてことを今振り返って思います。
そしてそれは今も現在進行形です。
だんだんいい感じになってきました。このまま順調にステップアップしていけるのでしょうか?
そのあたりについては次回以降またお話ししていきます。