森山未來(ダンサー / 俳優) - 地域を知るなかで立ち上がってくる身体、言葉をパフォーマンスに凝縮させる
2021年3月、京都の清水寺で『Re:Incarnation(※1)』という作品を制作しました。京都にいる人たち──「人間全体が」と言ってもいいのですけれども、その場所とどのように対峙して生きてきたのかを見つめるプロセスから生まれたものです。京都には京都五山があり、三川があり、かつては大きなたまりとして巨椋池が南にありました。そういう川や山の恩恵を畏怖の念とともに享受して生きては死んでいった人たちがいたということが、最終的にパフォーマンスのコンセプトになりました。僕はそれを体感していくために、とにかく地域のことを知るためのフィールドリサーチを重ねました。そして、そこから立ち上がってくる身体、言葉を最後のパフォーマンスに凝縮させていきました。
この冬には、神戸市の長田区にあるDance Boxというコンテンポラリーダンスに特化したダンスセンターから振付を依頼されて、『Re:Incarnation in Nagata(※2)』という作品をつくりました。長田という地名の由来は「長く開けた田んぼ」からきています。神戸市というのは六甲山系があり播磨灘、大阪湾とつながっています。要するに陸地、平地が少なく東西に延びているイメージなんですが、長田辺りから南北に延び始めるのです。川が延びるからその分田んぼが多くつくれるので、人が定住し始めたのが早く、昔から栄えていたのであろうと推測できます。しかし、そんなことは地元の人は知ったこっちゃないですよね。だから僕なりに山や川や海、さまざまなポイントを選んでいき、そこを主軸に身体が立ち上がることを観客と共有しながらやっていったんです。長田の人からすると、ただの何の変哲もない地元の川であったものが違う川に見えてくる。地元の人だからこそ地元すぎて見落としがちじゃないですか。「そうか、苅藻川、新湊川というのは、そういうものとしてこの場所にあったのか」ということを再発見したと感想をもらえたのはうれしかったですね。
「地域との関わり」と「内省」のバランス
ただ、地域が活性化して新しい魅力に目覚めていく、その魅力を再発見していくことの美しさと同時に、その大義ってどこにあるんだろうなというふうにも、思います。消え去るものは消え去るのだろうという気もします。廃れるものは廃れ、残るものは残るのです。地域の内と外の出会いがあるかないか、またその出会いが立ち上がっていく関係値の築かれ方次第で、地域がどうなっていくかも変化していきます。それをどのように捉えていけばいいのかということを考え始めています。
僕は今回、城崎国際アートセンター(※3)に滞在させてもらいますが、アーティスト・イン・レジデンスという施設は、アーティストがその地域、その場所に来て外的な要素として地域から何かしらのインスピレーションを受けて、内的に、内省的に作品を構築していくための猶予期間になります。そういう豊かな時間を過ごすための場所です。
文化観光の視点で考えると、外から来たアーティストが地域の歴史や文化、風景を作品に組み込んで展開させたいと思うときは、その地域の方の協力を得ていろいろな場所を回るなど、自然に交流が生まれます。その中で城崎や豊岡の地域を見たときに、地域の人が目に留めていないものに目を向けることがある。それが地域の人たちにとっての気づきにもなっていきます。その深掘りをすることによって、地域の空間、場の力のようなものを再確認して、新たに立ち上がっていく、というようなことが起こってきます。
しかしアーティストにとっては内省が不可欠ですので、地域と関わることとのバランスは難しい側面もあります。地域とコミットした作品をつくりたいアーティストもいれば、施設に閉じこもって内的に深めることをしながら作品をつくりたいアーティストもいます。それぞれどちらもあってよくて、そのレジデンスがある土地の地域性と、訪れるアーティストの特性次第とも思います。すべてにおいて正解はありませんから。
僕自身の場合においても、結局はアーティストとしての自分がどのようにその地域と関わり、作品として昇華させていくかです。地域の人たちとのあいだに生まれるエネルギーやひずみも含めて、どこまで受け止めていく必要があるのか、アーティストとしてどこまで引き受けるべきことなのかは正直、作品のコンセプト次第です。別にそれは強制されるべきものではないと思っているので、自分のその時々の在り方に合う形で関われたらいいのかなと思います。
思わず動いてしまう身体からパフォーマンスが生まれる
とはいえ作品制作の際は、まず往々にして、何を創りたいのかわからないところから始まることも多いわけです。僕は「今ここからしか生まれない身体」を模索しようと思ったときに、自分がどう動くのかではなくて、何に身体が動かされるのかを意識することが多いです。時にはある言葉、時にはある環境によって、思わず動いてしまう身体からパフォーマンスに発展させていく。それは対「人」から立ち上がるものでもあり、対「場」から立ち上がるものでもあります。狙い澄ましてそこにいく、ということで立ち上げる身体ももちろんありますが。
どこであってもその「場」に行き、何かしら自分の環境が変わることによって、精神的な状態は絶対的に変わります。しかも、知らない場所では世界がすごく新鮮です。そこから入ってくるインスピレーションは、明らかに強いものがあります。だから、場を移動させて作品を創っていくというのは、自分がやりたいことにちょうど合っている感じがします。普段住んでいる場所ではない空間でインスピレーションを受けることによって、形にならないままに渦巻いているものが少しずつ形として構築されていく、その要因になっていくと感じます。
一方で、形にならないコンセプトのようなものがあるとき、そこから立ち上がってくる身体はまだ形のないコンセプトと引き合い、つながりあっているものとして、ある意図をもって動いてしまっている可能性もあります。作為的に生むものと、無作為に生まれてしまうもののバランスは、どう説明をすればいいのか非常に難しいことです。作為は作為として提示したほうが、逆に作品としてはインパクトがあるものとして伝わることもあります。そこにしかない環境や背景があると、それだけでもう情報量がすごいわけですから、普段存在している身体との関係値はまったく違ってしまうのです。
人間同士でつながっていくこと
アーティストが作品を作品として、パフォーマンスをパフォーマンスとしてとどめるものは一体何なのか。あるいは人間を人間として取りとどめさせるものは何なのか、ということを考えたとき、それは最終的には結局人間同士でつながっていくこと、つながっていることそのものがパフォーマンスたらしめ、人間たらしめるのではないかと今は思うんです。人間は一人では生きられないのですから。ホモ・サピエンスは弱いからこそ、集団でいることを選んだのですよね。
人は他者との関係値の中で生きていくしかありません。二人が三人になると関係値は変わり、四人になるとその関係値はまた変化するでしょう。そう考えると、自分自身が何たるかということはあまり確証が持てないと僕は感じます。日本人は同調する能力が強いと思いますし、外から来た文化を受け入れていく能力もある。同時にすごく排除してしまうものもあれば束縛するようないわゆる同調圧力も強い。その中で立ち上がっていく「集団だからこそ持てる強さの中にある個」の輪郭を取りとどめるものは何なのか。もしかすると集団でいるときの自分というものは、空っぽなのかもしれません。しかし空っぽかもしれないけれども、この肌で僕の境界線は隔たれています。この隔たりの中で、自分をどういうふうに認識するのかということを、今考えています。
『Re:Incarnation』…東日本大震災10年の節目に、森山未來氏とそのチームによって行われたアートパフォーマンス。平安時代に描かれた人が亡くなってから朽ち果てるまでを9つの絵にした「九相図」をモチーフに、森山氏は清水寺、貴船神社など9つの土地に通い、その場の「気」を感じ、「踊り」に落とし込んだ。
『Re:Incarnation in Nagata』…神戸・新長田のアートシアター「ArtTheater dB Kobe」にて上演された森山氏のプロデュース作品。長田の街の歴史や土地に着目した作品で、同シアターだけにとどまらず商店街「大正筋商店街」にも飛び出しパフォーマンスを行った。
城崎国際アートセンター…兵庫県豊岡市の温泉街に位置する舞台芸術のための滞在型の創作施設。2014年にオープンした本施設は、ホールに6つのスタジオ、最大22名が宿泊可能なレジデンスやキッチンなどで構成され、アーティストが城崎のまちに暮らすように滞在しながら創作できる。
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