戸谷祐次(タケフナイフビレッジ / 伝統工芸士) - ものをつくるだけではなく広める/売るまで担う新時代の職人
「越前打刃物」の独自ブランド、その軌跡
産地はあるわけなのに、越前打刃物(えちぜんうちはもの)という名前は誰も知らない。日本中探しても、どこにもその名前で売ってないんです。大量生産の安価な型抜き刃物が台頭して、問屋さんの仕事が減り、職人の仕事も減り、高齢化もしていく。このまま続けていっても、10年後も20年後も売れることはない。「どうにかしなければもうだめになる」という危機感がありました。
苦境に立たされた中で、70年代に30~40代だった私たちの親世代約20人が集まって、越前打刃物の将来を語り合い始めました。80年代に入ってからは福井県出身の世界的デザイナーである川崎和男さんに入ってもらって、伝統工芸品である越前打刃物にインダストリアルデザインという概念を取り入れた独自ブランドを作り、さらに1993年には協同組合の拠点であり共同工房、直売所となる「タケフナイフビレッジ」を残った12人で組合として設立しました。総工費は3億円。当てにできる補助金などは一切なく、1人3000万円の借金を背負ってつくりました。自分の工房ですでに借金しているのにさらに借金してつくったんです。
自分たちでブランドをつくってショップをもつということは相当な覚悟が必要で、問屋さんからは独自ブランドでやっていくなら契約を切る、という話もあったと聞いています。それでもやろうとしたのは、自分たちで終わらせないという強い思いだったのだろうと思います。
「タケフナイフビレッジ」では、設立当初から工房や設備をすべて共有して、使った分だけノートに書き留めて使用料を払うというかたちでやっています。ずっと1人でやってきた親方たちが約10人集まってやり始めたものですから、「うまくいくわけがない、すぐにつぶれる」と周りからは言われていました。でもずっと続いてきました。今に至り、若手もどんどん入ってきて活気が上がっています。
常に技術的な交流が多くあるというのも特徴です。ここの工房だと刃物を打つ人と研ぐ人がすぐ隣にいるので、お互いの良い悪いがすぐに言いあえます。別の場所に分かれていたら、車に乗ってその鍛冶屋さんまで行かないと言えないので、わざわざ伝えるようなことはしないですよ。作ったものを問屋さんに流すだけです。お互いの仕事の真似もできるので、みんなのレベルが上がりました。先輩も後輩もいて相談できるし、なんでもしゃべれます。これがもし親と自分の二人だけの工房だったら、一言もしゃべらなかっただろうと思います。
工場見学に来てくれた人の反応が、仕事の誇りにつながる
一番よかったことは僕らの親世代が若手を抱え込むようなことをせず、「いつまでもうちにいるな、独立しろ」と言って僕らを育ててきたことです。普通は従業員の独立を嫌がると思うんですが、顔を売ってこいと若手にチャレンジさせてくれる親方たちでした。それは完全に産地のためです。自分だけ儲かればいいと思っていても、若手がいないとそこに仕事は来ません。人がいるところに仕事が来ます。産地活性化という長い目での目的意識があります。独立して誰かが売れると越前打刃物全体の名前が売れて、全員にメリットがあるんです。
設立した30年前からずっと、工房を一般見学ができるようにしています。県外から見に来る人も多くて、工房を見学したことでここで働きたいという人もいます。ギャラリーも併設する直販ショップも当時からあります。親方の世代はものを作るだけで、広めたり売っていくことは苦手だという人も多かったですが、僕たちの世代になるとむしろそっちの方が得意な人もいます。自分の名前のものを売りたいという気持ちがありました。売れていくと楽しくなって、より顔を出していきたいと思うようになるんです。
見る人たちがすごいと言ってくれることで、仕事が誇りになっていきました。カッコいいなって言われる、憧れられる職業になるといいなと思ってます。小学生の工房見学なども、時間はとられるしお金にはまったくなりませんが、種まきでやっています。その芽が出て、「小学生のとき見学に来ました」という人が大人になって改めて来てくれることが増えてきました。そういう種まきもずっと熱心にやってきています。