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春の制作について
春季制作の制作意図
今回の制作では、郭煕や范寛の山水画を意識して自然の壮大さの表現を試みた。
そしてそれを通じて、今まで教えられてきた日本画に対して感じていた厚塗りが推奨される傾向に対する違和感の解消策を考えた。
さらに、それを踏まえて自分の手を通過した絵の具を使うことの意味付けについて考察した。
では始める。
一年生の時は薄塗りの技法に日本絵画の根幹があると考えていたため、今日の厚塗りを推奨する傾向に疑問を持ちながらも絵の具の練習と割りきって描いてきた。
けれど、山水について少し齧るうちにただそこに厚塗りの技法がなかっただけで、表したいことという根幹はその技法によって揺らぐものではないのではないかとも思うようになった。
(いろいろと端折るのは理解が進んでいないから。外に出せない。浅はか。)
墨の特質によって生まれた表現もある。だが、墨にしかできないことがあるように岩絵の具を重ねて塗っていく表現でも日本絵画を描くことは成立するのではないだろうか。
そこで私は、表現の元となる絵画を昔の人に習えば、日本絵画と呼べるものが描けるのではないかと考えた。
中国山水の自然観を独自の感覚でとりいれて発展させること、それが鎌倉末期の禅僧たちのやってきたことだ。
私にとって郭煕の《早春図》や牧谿の《遠浦帰帆図》などは異国の画技に優れた最上の絵画で、日本でその絵を見た禅僧たちの気持ちに共感ができるように思えた。
その山水を自分の解釈で捉え表現していくことは、昔の日本人の考えと行為を重ねて描くことであるため、日本絵画を描くことになるといえるのではないだろうか。
私は今、岩絵の具の魅力の虜になっている事実がある。
色を重ねていき画面がさまざまに移り変わっていくこと、盛り上げ胡粉、体当たりするような描き方、そういうことがとても楽しく感じ、そこに可能性を感じている。
言い過ぎではあるかもしれないが、この気持ちは昔の画家たちとも通ずるものではないだろうか(言い過ぎを越して傲慢、認める。だが言いたい)。
宋代の画家たちの意識も何をいかに表現するかに向いており、それを表すための技法を研究していた。
そこにもしも、今の日本画と呼ばれる技法(要するに厚ぬり。いわゆる油絵と何が違うかわからない。と言われる描き方)が目の前に差し出されれば、彼らは喜んで試し、使っただろうということが感じられるのである。
このことから、画面の厚みへの執着よりも山水の自然を感じさせることに基づいて表現したいことを表す素材や技法はなにかという視点を持ち、制作を行うことが必要であると考えたのだ。
そこで、前に拾ってきた石をたくさんの顔料にさせていただいたものを使った。
自分の手を”介した”絵の具という素材がまさに、この地球、地面の動き、変化の末に生まれた岩石を描くということに合致したものであったためである。
(ここで注をつけると私は石を砕くこと粉にすること行っただけで自分で”作った”絵の具とは言いたくない。その色を”作った”のはあくまでも大地の動き、私は本当にただ拾って機械にぶち込んだだけだ。そこはどうしてもおこがましすぎて”作った”とは言えない。あくまでもほんの少し自分の選択が入った絵の具程度だ。その石の歴史からすると一瞬にも満たないのに”介する”もないとは思う。)
(古の画家と自分の気持ちが通ずるとかは平気で言えてしまうくせに。)
話を戻そう。自分の手を介した絵の具を使うことについてだ。
大きな世界の気が自分をも通じているという自然との一体感を感じさせることは、中国山水の楽しまれ方と近いように感じられる。
これは表現の根底を山水を取り入れた禅僧たちと同じ場所に持つという考えとも一致するため理にかなった素材と言えるのである。
以上のことから、私は制作に宋代山水表現の特に空気感や壮大さを取り入れた。
そして自分の手を通過した(”通過した”ってまだマシな表現だな)岩絵具も組み合わせながら塗り重ねることで、絵の具を通じて岩がもつ地球の躍動や物質が巡っていく流れのようなものを表そうと考え、今回の春季課題を描いた。
制作意図、以上。
構図について
私は構図に苦手意識があるため克服できるような実験を行った。それは写真を取り入れながら下図の考察をすることだ。
まず取材先の庭園を写真をなるべくいろいろな場所、角度、時間で撮り、切り取り方のバリエーションを増やした。
そしてその写真を選考し、選んだ場所をスケッチし、小下図作りに進んだ。
結果として良い側面と写真ではやはり足りないと感じる側面の両方を知ることになった。
まず、良い側面としては主に、スケッチをするよりも構図のレパートリーを段違いに増やすことができることが挙げられる。
自分でスケッチをすると単純に量が少なく、選択肢の少ない中から小下図を作っていくことになるため、写真の方が選択肢の数を増やすことができる。
それだけではなく、地平線を斜めに切り取ることや何か手前のもので画面の一部分を大きく覆ってみるなど、自分の両目では思いつかない発想を得ることができる。
これは、たださまざまな場所を切り取るだけではなく、狭い長方形の視野を持つカメラであるからこその長所であるといえる。
それ以外にも、スマートフォンのカメラのため、撮る際に好きなフィルターをかられることも利点だ。
目で見たままでなく好きな雰囲気に変換するとこの風景はどんなふうにみえるのかということについて一つの案が得られる。
これは絵の世界観の幅を広げることにつながるだろう。
ps これは光学的な正しさに縛られている。絵の自由さみたいなものが遠のいてしまう。そういう考え方もあるな、とは思う。ただ私の想像力はそれ以下のため、まあ一手としてはありではないかという提起。その程度。
写真だけでは足りないと感じる側面には、実物のスケール感を忘れてしまったとき、どんな大きさの画面に描くか検討がつかなくなるということが挙げられる。
これはその場所のリアリティを自分に落とし込むことがないままその場所を描いてしまうというリスクを表していると考える。
肌に感じた突き刺さるような寒さや、立ってスケッチをすると足が痺れること、なんとなく遠巻きに人の視線を感じること、太陽の場所など、スケッチの際に得られる情報量は写真とは段違いに多いのである。
それらは写真だけ撮って帰ってしまっては得られなかった体験であり、それを感じているのといないのとでは作品の深みに大きく差がでると考えられる。
現に本画の大きさを決める際p50かp60かでかなり迷った。
その時、その大きさ感を知っていたからこそ、大下図を二つ作って比べた段階で確信を持って選ぶことができた。
これらの体験を通し、写真もうまく取り入れることで、自分の発想にない新たな目線を手に入れることができ、闇雲に敬遠するものでもないということを感じた。
それと同時に、描く場所に長い時間いることでその場所への愛着がうまれること、描く場について深く考えるためにはその場をしっかりと時間をかけて体感することが重要であることが改めてわかった。
まだまだ言葉にはならないし知識の不足、勘違い、大いにある。ただ、わたしはなにを描きたいかとちゃんと向き合えた2ヶ月だったと思う。また次の一枚、全力を尽くそう。
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《躍動》白麻紙・水干絵具・岩絵具、1303×894mm、2021年3,4月。