正面からか、斜めからか
教育とは「共育」、共に育つことなのだと思う。
教えているつもりが逆に教えられる、子ども達と接しているとそんなことは日常茶飯事だ。
僕は職業としての教師ではないけれど、教育というものに対してそれなりの重荷を持っている。「良い学びの場に恵まれた自分には、良い学びの場を他者に提供する責任がある」みたいな価値観を持っていて、機会を捉えて教育関係のボランティア活動に参加させてもらっている。
親と先生以外の大人
先日、縁あって地元の県立高校でキャリアセミナーの講師をさせてもらった。人前で話をすることは結構あるけど、聞き手が高校生だけというのは地味に初めてで、準備に結構な時間的・精神的なリソースを費やしてしまった。
このキャリアセミナーは宮城県内のNPO法人が運営している。
スタッフと講師の社会人が、公立・私立問わず県内の高校に出前に行く形だ。生徒達は、普段の学校生活ではなかなか接することがない社会人から仕事や人生の話を聞いて、自分のキャリアや生き方について考える。
僕は、「普段の学校生活ではなかなか接することがない社会人」の一人として、自分が今までの人生で経験してきた困難やチャレンジ、そしてそこから何を学んだのかということについて話をさせてもらった。
キャリアセミナーだから一応仕事に関する話もさせてもらったけど、自分が労力を使ったのは、どんな仕事をするにしても重要になる「人間性」の部分だ。
自分自身を大切にするように身近な人を大切にする。
どんな仕事に就くのかを考えるのも重要だけど、その前に「どんな人間になりたいのか」についてじっくり考えることはもっと重要だ。
そんなことを、僕の失敗談を交えながら結構な密度と熱量で語らせてもらった。高校一年生には僕の人生経験は些か刺激的な話だったかもしれない。
僕は一方通行で話すのが苦手で、質疑応答をバンバン挟む双方向なレクチャーを好む。当日もそんなノリで聞き手が置いてきぼりにならないように最大限に注意したのだけれど、生徒達の反応は自分が想定していたよりも薄いように思えた。質問しても、回答するまでちょっと時間がかかる。
僕は、自分の想いが空回りしているような感じがして少し困ってしまったのだけれども、彼・彼女らが僕の話を適当に聞いていたかというと、決してそうではない。振り返ってみれば、講義の最初から最後まで「何かが伝わっている」という確かな手ごたえがあった。
反応が薄い(ように見えた)のは、見知らぬ大人の前で自分の気持ちを素直に表現することに慣れてないだけ。質問に対する回答が遅いのはディスカッションの訓練をしていないだけ。それだけのことだ。多分この分析に間違いはない。
生徒たちはとても素直だった。
僕が発する得体の知れない「何か」をちゃんと真正面から受け止め、そこから何かを学ぼうとしていたと思う。あの空間では、僕も本気だったし、生徒達も本気だった。短い時間の中で、お互いが相互理解に努めていた。
振り返るとそんな空気感には一定の緊迫感もあったし、その緊迫感が僕にはとても心地よく感じられた。
「斜に構える」以外の選択肢があるか
僕たちは、大人になるにつれて、斜に構えることを覚えてしまう。
物事を真正面から受け止めるのにはエネルギーがいる。出会う事柄一つ一つに真正面から臨んでいたら身も心も持たない。だから、必要に応じて斜に構えて物事に対処するのは生存戦略としては正しい、と思う。
だけど、常に斜に構えているのはちょっとまずい。
何に対してもまず批判から入る、冷めた目で見る、皮肉な態度で臨む、ということが当たり前になってしまってはいけない。そんなことを続けていると、僕らは素直な心で、真正面から人と向き合うことができなくなってしまう。
真正面に人と向き合うことのできない人の言葉は心に響かないし、刺さらない。僕は経験上そのことをよく知っている。
電脳空間では結構な頻度で斜めな人を見かける。
ニュースサイトのコメント欄を眺めていると、斜めからのコメントの多さにびっくりする。政治関連のニュースに対しては特にそうだ。よく見て見ると良い施策もあるのに、マイナス面ばかりを強調して脊髄反射的な批判に走るのは物事の捉え方としてはちょっと幼稚であると言わざるを得ない。
真っすぐ向き合うことができるのは強さだ。都合のよいことも、不都合なことも、ありのままを受け止める、これは簡単なようで難しい。
今回、僕の話を一生懸命に聞いてくれた生徒達には、「戦略的」に斜に構えることを覚えつつ、自分と異なる価値観を真正面に受け止める逞しさを持って欲しいと願っている。そして、僕もそのようにありたい。
今回は本当に良い経験をさせてもらった。
ありがとう。
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