イギリスに裁かれる夜神ライト
デスノートは私が中学生時代にハマっていた漫画だ。当時からミステリーやサスペンスが好きだったのに加え、小畑健の絵がすごく上手くて惹かれていた。
当時は何とはなしに読んでいたんだけど、左右の対立とかジェンダーとか国際関係とか学んだ後に改めて分析してみると、非常に面白い話だと思う。
映画版だとデスノートはLが出てくる前編しか切り取られておらず、後編はすっぽり抜け落ちてしまっている。
映画のLは「死んで勝つ」みたいなオチになっているけれど、漫画ではLは分かりやすく敗北を喫し、その後継者たちがライトを追い詰めていく話になっているのだ。
その後継者たちというのが、イギリスのワイミーズハウスという天才的な子供を集めた孤児院で育ったニアとメロという少年たちだった。
ニアはワイミーズハウスで一番の秀才で、メロは二番手、いつも自分の先をいくニアに嫉妬心を募らせていた。
日本でLが死んだという知らせを受け、ニアはその後継者としての席につき、ライトを追い詰めていく。メロは正攻法でニアに勝つことは諦め、マフィアの手先を使ったりして手段を選ばずライトを追い込むことにした。
詳細は省くが、最終的にはメロが間接的にニアに協力し、ニアがライトに勝って、一見落着、という話だった。
なんというか、日本でLが負けて、最終的な審判がイギリスに投げられる、というのが象徴的過ぎて笑える。日本のふんぞり返ったファシズムエリートは日本国内だけでは手に負えないから、イギリス様に懲らしめて頂く、みたいな笑。
情けねー、、
ニュルンベルク国際軍事裁判みたいな。それでも取り零したところが多かったから、欧米かーでも手に負えてないんだと思うけど。国内で闘っていたLでさえ、本名はL・ローライトというのだから、欧米か!笑
というか、今外国人も多く参加するフェミニズムグループに入っていて実感するけど、欧米かーだって別にいつだって正しい正義の騎士な訳ではない。
極左であるはずのフェミニズムグループの人でさえ、本当に核心の闇や痛いところを突かれたら、普通に否認したり、誤魔化したりするのだ。
度胸の無さはあまり変わらない。
誰の心にも悪はあって、それをのさばらせてしまう弱さこそ悪の本質なのではないか、と最近思えてきた。悪魔は自分で悪いことをする存在ではなく、人間に元からある悪いところを引き出す存在なのだ。
欧米かーに違いがあるとしたら、口を塞がれていないことだと思う。
なかったことにしたいような都合の悪い意見も、議論のルールを守っている限りは発言自体は許されるのだ。
議論のルールとは、議題そのものに関係の無い人格否定や嫌がらせなど、卑怯なことをしないこと。
競争があることには違いないが、競争にもルールがあることを徹底的に教える、スポーツマンシップの問題なのだと思う。
だけど最近は日本でも抑圧された者の権利を訴える流れに少しずつ変わってきているように思う。
ライトを国内で裁けるようになって欲しいと思う。
追記
以前、デスノートのハリウッドリメイクバージョンの映画を観たんだけど、これがまたすごいリベラルバイアス掛かってて本作とのギャップにワロタ。
本作ではライトはミサを自分に惚れさせて召使いのように利用することしか考えてないのに対して、リメイク版ではミサの方がライトを出し抜きノートを奪っていく「強い女性」になっている。L役には黒人を起用していて、正義の味方に有色人種を起用するという、これまたすごいリベラルバイアスだ。
まさかこういうアングラな話にまでバリバリのリベラルバイアスを掛けるとは思わなかった。
全然ちゃう話になってもーとるやん笑笑
けどそこがいい!
誰に何と言われようと突っ走って欲しい、痛快だ。
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