カール大公の恋4 ナポレオンの台頭④
最愛のジョイア
引きこもって暮らしているカールの耳に、マリー・テレーズの夫、アングレーム公についての様々な陰口が飛び込んできた。
妻を顧みないとか、もっと露骨に、身体的に満足させられないのだ、とか。
いくぶんかは、彼女にふられた形になっているカールへの身びいきもあったろう。
マリー・テレーズがまだウィーンにいた頃、フランス人のこの従兄は、彼女に殆ど手紙をよこさなかった。たまに寄越しても、天気の話が大半だったと、例の秘密情報員が言いふらしていた。
マリー・テレーズと結婚してすぐ、アングレーム公はロシアの軍隊に参加した。彼は新婦をほったらかし、亡命してきた祖国フランスとの戦いに明け暮れていた。
その後もアングレーム公は、妻の傍らにいることは少なく、各地を転戦しているという。二人の間に、まだ子はない。
……彼女は幸せなのだろうか。
カールは訝しんだ。
自分なら幸せにしてやれたのに、と身悶えする思いだった。少なくともアングレーム公よりは多くの時間を、彼女の傍らで過ごしただろう。
だが、仕方のないことだった。
その資格がないから。
自分は、フランスに敗北したのだ。
かつてマリー・テレーズの両親と弟を殺し、彼女から青春時代を奪った革命、その継承者ナポレオン・ボナパルト。自分は彼を誅することができなかった……。
◇
カールのいなくなった戦場で、風向きが変わった。
ナポレオンはロシア遠征に失敗し、1813年、イギリス、オーストリア、ロシア、プロシアを初めとする大同盟軍に敗北した。
ナポレオンは、エルバ島に封じられた。
カールの姪マリー・ルイーゼが、ナポレオンとの間に生まれた子どもを連れてウィーンに帰ってきた。
ウィーンの人々は、ミノタウロスの腕から生還した乙女を迎えるように、歓呼して彼女を出迎えた。
フランス王には、ブルボン朝のルイ18世が即位した。マリー・テレーズの叔父、彼女の夫の伯父だ。彼女の夫アングレーム公は正式に王太子としてパリへ入城し、テレーズは王太子妃となった
カールは知っていた。マリー・テレーズは、両親の雪辱の為にブルボン家に嫁いだのだ。
ブルボン王朝の再興。それこそが彼女の悲願だった。ギロチンの犠牲となった両親の尊厳を、取り戻すのだ。
ルイ18世とマリー・テレーズのパリ入城は、怒涛のような国民の歓呼に迎えられた。
馬車は、ブルボン家を象徴する百合の花で満たされていた。その中にマリー・テレーズは、銀の葉模様を刺繍した白いガウンを着用して座っていた。
国王はにこやかに手を振っていたが、マリー・テレーズは終始、緊張してしゃちこばっていた。着ていたガウンにひだ襟がついていたせいで、その青白くこわばった表情はいかめしくさえ、集まった人々の目に映った。
……「王太子妃は、堅苦しく、なんだかとても、苦しそうでした」
そんな報告がウィーンに齎された。
……貴女は今、幸せですか?
心の中でカールは呼びかけた。
……私を置いて、フランスを選んだ貴女は、幸せになれたでしょうか。
◇
それから1年もしないうちに、ナポレオンがエルバ島から脱出した。次第に兵を増やし、ついにパリに返り咲いた。
ルイ18世は、即座にブリュッセルへ逃亡した。
マリー・テレーズの夫アングレーム公は、ニームで反ナポレオン軍を組織した。
妻のマリー・テレーズは王党派の多いボルドーに残り、強烈な反ナポレオンのキャンペーンを張った。
しかし、軍の将校初め兵たちは彼女に従わなかった。彼らは、同じフランス人と戦いたくなかった。かつて同じ軍の仲間だったナポレオン軍と。
「いいえ。フランス人は名誉を忠実に守ります。国王を裏切ったあなた方は、もはやフランス人ではありません。回れ右! 退がりなさい!」
王家に従おうとしない軍に、彼女は命じたという。
一方で、ボルドーの地元守備隊の国民衛兵らはマリー・テレーズの味方だった。ガロンヌ川岸辺に集結した彼らは、ブルボン家の白い旗をはためかせ、彼女のため、王のために戦う決意を見せた。
正規軍の兵士たちは、背中を向けたというのに。
ナポレオン軍を川の向こうに挟み、マリー・テレーズは、無蓋の馬車に立った。敵の標的になる危険を犯しながら言った。
「あなた方は素晴らしい名誉を示しました。貴重なその忠誠心は、とっておいて下さい。今、私はあなた方に、戦闘中止を命じます」
そして彼女は、フランスを離れ、イギリスへ渡った。
彼女は、フランスの民を戦いで死なせたくなかったのだ。
「彼女は、家族でただ一人の勇者だ!」
報告を受けたナポレオンは、そう言ったという。
……相変わらずやってるな。
カールは思った。
兄の差し出す書類にサインを拒んだ、彼女。
秘密警察の目を欺くために、レモンの汁で手紙を書いていた、彼女。
……少しも、変わっていない。
だが状況は、マリー・テレーズにとって悪くなるばかりだった。
夫のアングレーム公が、ナポレオン軍の捕虜となったのだ。
幸い彼は無事で、妻に手紙を書いた。
その手紙で、アングレーム公は、妻のことを、「最愛のジョイア(イタリア語で喜び)」と呼んでいたという。
捕虜の手紙を監視するのは、どこの国でもやっていることだ。
アングレーム公の妻への呼び名をすっぱ抜いたのは、他ならぬナポレオンだった。
『若きウェルテルの悩み』が愛読書だというナポレオンは、ラシュタット会議で、スウェーデンのフェルゼン伯にマリー・アントワネットとの関係を尋ねたこともあった。
他人の色恋沙汰に、ことさらに敏感な男だった。
……なんだ。幸せじゃないか。
アングレーム公が愛情いっぱいの言葉で妻を呼んでいることは、カールには衝撃だった。
だがそれは、いやなものではなかった。
……彼女はとても幸せなんだ。
心の重荷がとれたような気がした。静かな開放感が、心を満たしていく。
マリー・テレーズは、夫に愛されている……。
◇
どん!
何かがカールの脇腹にぶつかって止まった。
勢いで転びそうになった体を、危ういところでカールは支えた。
フランツ。ナポレオンと、カールの姪マリー・ルイーゼとの間に生まれた男の子だ。父の没落に伴い、母の実家であるウィーンの宮廷に連れてこられていた。
体温が高く柔らかい物体を、カールはしげしげと眺めた。
……薄い金色の髪、青い目。身長は2フィート(約60センチ)もあるだろうか。子どもにしたら、しっかりした体つきをしている。少し前歯の間が空いているな。でもこれは、すぐ生え変わるだろう。全体的にどことなく、ナポレオンと似ている。
掴まれた腕を、子どもは振り払おうとした
フランツは、普段は、決してカールに近づかなかった。
……カール大公はナポレオンに最初に黒星をつけた軍人である。
身の回りのフランス人従者の誰かから、その話を聞いたのだろう。
……頑固な性格は、父親とそっくりだな。
苦笑しながら、カールは手を離した。
フランツは、父親が大好きなのだ。
戦争に明け暮れ、戦地でしか生きられない男だというのに。
……子どもというものは、そういうものなのかな。
そこまで慕われる「父親」というものが、カールには、ちょっと羨ましい気がした。
開け放たれたドアから、子どもは、弾丸のように外へ飛び出していった。
生き生きと、太陽の下を走っていく。
とても嬉しそうに。楽しそうに。
……かわいいじゃないか。
反抗的な小さな子どもは、まるで命の塊のように、カールの目に映った。
「あっ、カール大公!」
玄関ホールへ走ってきた侍従が、息を切らせて立ち止まった。
「プ、プリンスをお見掛けになりませんでしたか?」
「外へ出ていったよ」
カールが答えると、侍従はぎりぎりと歯を噛み締めた。
「出し抜かれたっ! ぼ、帽子も被らず、上着も着ずに……。放っておくと、そのままのお姿で、街なかまで行ってしまわれるんです!」
「そういうことなら、早く追いかけたらどうだ?」
侍従は飛び上がって、再び走り出した。
小さなフランツは、生け垣の根本にいた。窓からカールが見ていると、子どもは何の前触れもなく、ふっとしゃがみこんだ。
すぐそばを、侍従が慌てふためいて通り過ぎていく。
……うん。子どもを持つのも悪くない。
カールは思った。