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カール大公の恋5 叶えられなかった約束①

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ナポレオンの台頭④

叶えられなかった約束


幼い恋心


 「……6月17日、ローバウ島のナポレオン砦を経て、フランス軍の橋が完成した。
 7月5日夜、敵は、嵐を衝いて渡河作戦を敢行した。フランス軍18万。対して、わがオーストリア軍は、12万。頼みの綱は、ヨーハンの別働隊だった。だが、ヨーハン軍は、ウジェーヌ・ボアルネの軍により、ラーブで、てひどい敗北を喫していた。すみやかなる合流は不可能だった。
 ここが、私の作戦の甘さだった。
 一方、フランス軍には、ウジェーヌ軍が合流し、さらに膨れ上がっている。もはや、負けは見えていた。私は、直ちに全軍に退却を命じ……」

 カールは言葉を途切らせた。
 彼は、1809年の、ヴァグラムの戦いについて、姪の息子フランツに講義をしていた。姪の息子……ナポレオンの息子だ。
 最終的にオーストリア妻の国が敵に回ったことに対し、希代の英雄ナポレオンは怒りを感じていたという。けれど、それでよかったのだ。妻の実家ウィーン宮廷に引き取られた彼の息子は、祖父オーストリア皇帝の元で、ヨーロッパ最高の教育を授けられた。

 ナポレオンとの友情を、カールは忘れていなかった。彼はなにくれとなく、この生意気な少年ナポレオンの遺児に目をかけ、年若い妻との間に生まれた自分の子ども達と遊ばせた。
 姪の息子フランツは、12歳の時から軍務を志し、18歳になった今年から、ヴァーサ公の選抜歩兵連隊で実技演習を受け始めていた。
 カールも彼に軍事論の手ほどきを施していた。オーストリアとフランスの間に生まれた彼の剣が、母の国オーストリアを守ることを祈りつつ。その存在が、間違っても父の国フランスを再びの戦渦に巻き込まないよう願いつつ。

 そのフランツが、戸惑ったような顔をして、大叔父カールを見つめている。
 カールは、参照してたメモを、下に置いた。

「質問かね?」
「カール大公は……」
青年は、言い淀んだ。思い切ったように、続ける。
「軍の指揮官として、失敗をお認めになるのですか? 敵を前にして、軍隊に、退却を命じられたのですか?」
「ああそうだよ」
穏やかに、カールは答えた。
「わが軍に、これ以上、犠牲を出すわけにはいかないと判断したのだ」
 フランツは、非常なショックを受けたようだった。
「もし大公と同じ状況にあったとしたら、僕は絶対に、自分の失敗は認めません」
 カールは微笑んだ。
「なぜ、そんな風に思うんだね?」
「それが、軍の指揮官として、あるべき姿だと信じるからです」

「Reculer c'est se perdre.」
言って、カール大公は、にっこりと笑った。
「撤退は、自分自身を失わせる。……ナポレオンの好んだ言葉だね」
「Je ne veux pas avoir tort!(私は、間違いは犯したくない)」
フランツが答えた。
「なるほど」
カールは答えた。
「だが、配下の兵士を、無駄に死なせてはならぬ。私はそう、思うのだ」
「それはそうですが、」
きっと、フランツは顔を上げた。
「僕は、自分の部下から、なめられたくありません。軍の規律は、守られねばならぬのです」

 強烈な自意識が感じられた。人の……特に、年長者の意見は、一切容れぬという、強い自我だ。人によってはそれを、強情だと言うだろう。

 ……それは、彼に、自信がないからではなかろうか。

 今の彼の地位を考えれば無理も無いことだと、カール大公は思った。
 れっきとした大公女の息子でありながら、その身分は、大公の下の、公爵だ。
 18歳になったのに、未だ独立を許されず、家庭教師の監視下にある。
 長らく将校の一番下の位にいたのが、去年、ようやく、昇進した。それでもまだ、大尉だ。その上、なかなか、実際の配属先が決まらない……。

「君はもう、解放されるべきかもしれないな」
ぽつんと、カールは言った。
「解放?」
「そうだ。政府宰相メッテルニヒの監視から、そろそろ、解放されてもいいのではないか。君は、いったい、何をしたいのだね?」
返事は、早く、揺るぎがなかった。
「僕は一刻も早く、実戦に赴きたい。砲弾の飛び交う中で、命を賭して、戦いたいのです。戦場こそ、ぼくの居場所です」
「君は、何の為に戦うのか」
「人々の為。人々の幸福と、正義のためです」
「もしオーストリアが、フランスと敵対したら、どうするか」

 我ながら、意地の悪い質問だと、カールは思った。
 だが、聞かない訳にはいかない、重大な問いだった。
 今回も、返事は素早かった。

「僕は、父の遺言を守ります」

 それはつまり、フランスとは戦えない、ということだ。
 ……全ては、フランスの人々のために。
 それが、ナポレオンの遺言だったから。
 カールは、ため息をついた。
 ……やはり、家庭教師の言うように、ウィーンに駐留させておくしかないのか。
 ……これほどの逸材を。

 「お父様!」
 明るい声がした。
 娘のマリア・テレジアが、駆け込んできた。
「もう、講義はおしまいのお時間よ! 私、ライヒシュタット公に、お話があるの!」
「アルブレヒトはどうした?」
カールは、苦い顔で娘を見た。
 弟のアルブレヒトには、あれほど、姉をしっかり見張っているように言ってあるのに。
「知らないわ! 知らないうちに、姿が見えなくなったのよ!」
 おおかた、控室に取り残されているのだろうと、カールは思った。こっそり抜け出してきたのは、姉の方だ。

「僕に何か御用ですか、マリア大公女」
 彼の娘の方を向いて、フランツが尋ねた。柔らかい微笑を浮かべている。自分の失敗は、絶対に認めないと言い張っていた時とは、別人のようだ。
 その様子は、実に、王子らしかった。育ちの良い貴公子、そのものだ。
 マリアの頬が、ぱっと赤くなった。
「ライヒシュタット公。来年の新年は、御用がありまして?」
13歳の娘は、こまっしゃくれた口調で尋ねる。
「いいえ。特には」
真面目な顔で、フランツが答える。
「では、わたくしを、馬車に載せて下さいますか?」

 年明けから、皇妃の聖名祝日(本人が命名されたのと同じ名の聖人の祝日)までの間、皇族たちは、お祭り気分が続く。プラーター(森林や狩場などを含む、広大な公園)へ馬車で繰り出したり、劇場へ行ったり、城壁に沿って散歩をしたりする。
 その楽しい時期に、自分を彼の馬車に載せてくれるよう、マリアは、頼んでいるのだ。

「よろしいですよ。ご一緒しましょう」
にっこり笑って、フランツは了承した。
 マリアは躍り上がった。
「まあ、嬉しい! きっと! きっとよ、ライヒシュタット公!」
「はい。きっとです」
「約束です」
きっとして、小指を突き出した。

「おいおい」
思わずカールは、声を掛けた。
「指切りなんて、言質を取るような真似は、失礼じゃないか」
「そんなことはないわ。ね、ライヒシュタット公?」
「僕は一向に、構いませんよ」
白皙の貴公子は、優雅に微笑んだ。
「ほら!」
得意そうにマリアが胸を張る。
カールとしても負けてはいられなかった。
「あんまりしつこいと、公から、嫌われてしまうぞ」
「だってお父様。私は、どうしても、ライヒシュタット公の馬車に乗りたいの!」
アルブレヒトの馬車は? あいつは、お前と一緒の馬車に乗りたがっていたが」
「嘘よ!」
短く、だが、断固として、マリアは答えた。
「あの子は、私とだけは乗りたくないって、言ってるわ!」
「しようのないやつだな。じゃ、お母さんの馬車はどうだ」
「お母様は、下のチビちゃん達と一緒に乗るの。あのね、お父様。私は、ライヒシュタット公の馬車に乗りたいの。あの黒塗りの、素敵な馬車にね!」
「……お父さんのじゃ、ダメか?」
「え?」
 マリアは、鼻白んだ顔をした。
 カールは、咳払いをした。
「わかった。彼の馬車に乗るんだな? お父さんが、証人になってやる」

 指切りなどさせたくはなかった。たとえ小指といえど、よその男と接触してほしくなかったのである。
 それは、カールが、父親だからだ。
 相手が、ナポレオンの息子だからという理由では、決してない。

 年明けまでには、まだ、時間がある。馬車の件は、そのうちに、うやむやにさせてしまえばいい。
 心に定め顔を上げてみると、フランツの姿は消えており、マリアが膨れて、カールを睨んでいた。



プロテスタントの妻


 1829年12月29日。カール大公の妃、ヘンリエッテが亡くなった。
 猩紅熱だった。子どもの看病をしていて、罹患したという。

 彼女を、カプチーナ礼拝堂(ハプスブルク家代々の墓所)に葬るには、異論が出た。
 ヘンリエッテは、プロテスタントだったからだ。
 クリスマスに、ツリーの蝋燭に火を灯すという習慣をオーストリアに持ち込んだのは、彼女だ。

クリスマスツリー

 カール大公妃ヘンリエッテは、ハプスブルク家が始めて迎えた、プロテスタントの配偶者だった。
 ウィーンの宗教的な寛容特別地域には、彼女の為に、プロテスタントの祈祷館が造られていた。だがこれは、彼女の死により、取り壊された。

 「生きていた時に我々と一緒にいた者は、死して後も、一緒にいるものだ」

 皇帝はそう言って、この義妹ヘンリエッテを、カプチーナ礼拝堂に葬ることを許した。

カール大公妃ヘンリエッテ



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